中学生のキュウのおはなし②

こんにちは、キュウです。

今回はライターチームのブログで、以前書いたブログ「中学生のキュウのおはなし①」の続きの「中学生のキュウのおはなし②」というテーマで書きたいと思います。

長くなりますが、よろしければお付き合いください。

中学二年生のキュウのお話

前回は、不登校になるまでと、当時の家族に対する気持ちのお話をしたと思うのですが、今回は不登校になって一年ほど過ぎた、中学2年生〜3年生の頃のお話をしたいと思います。

不登校になったキュウは、一年半ほど寝たきり生活を送っていました。その、最後の半年くらいからのお話です。

寝たきりだったキュウ

わたしは当時、過敏性腸症候群という病気にかかっていました。(当時の詳しいお話はこちら)トイレと布団を行き来する日々で、ノロウイルスにかかった時のような状態が何日も続く、終わりの見えない日々。外に出るなんてとてもできなくて、これから一体どうなるんだろうと、他人事のように考えながら、毎日の時間を過ごしていました。

そんなある日、母が言いました。

「海に足をつけるだけでもいいから、とにかく外に出てみよう」

その日から、わたしの戦いが始まりました。

外に出られる日も、出られない日もありましたが、体調が少しでもいいと感じた日には、外にでることに挑戦しました。というか、毎日母が「今日は外に行こう」「今日は外に行こう」と言うので、その言葉に応じる形で外にでるチャレンジをしていました。

外出する、ということが、わたしにとってどれほど困難なことだったか、想像できる人は少ないでしょう。でも、とても困難で、勇気がいることでした。外出すると考えるだけでお腹が痛くなって、結局外に出られない、ということが続きました。

食べ物も、普通のご飯を食べてしまうとお腹を壊すので、ゼリーだとか、スポーツドリンクだとか、そういうものを口にしていました。それでもダメな時には、病院に点滴を打ちに行って栄養補給をしていました。それが一年半も続いていたので、わたしは心も体も衰弱していて、無の状態になっていました。ぼーーーっとしてるだけ。なにもわからない。なにもやる気が起きない。死ぬ気すら起きない。本当の無。

こんな生活、抜け出せるの?と、先の見えない問いかけに答えてくれる人は誰も居ない。あるのは、ただ「熱心に信者としてふるまっていたら、いつか病気から解放される」というような意味の、神様からの言葉だけ。

それを信じて、ひたすら治ろうと頑張っていました。

キュウのおうちはクリスチャン

そういえば、お話ししていなかったですね。私はクリスチャンでした。両親が熱心なキリスト教信者で、私も長いこと信じてきました。私の行っていた教会では、信者や求道者が望めば、然るべき人より神様からの祝福の言葉というのがもらえました。お告げのような、神様からのお約束のような、信者にとっては大変意味深い言葉です。神様は目に見えないず、私たちと直接お話することはできないので、神様から任命された人を通して私たちにメッセージを伝える、という考え方でした。

その、神様からの言葉というのは、私たち信者から見れば、何よりの真実で、その言葉はどんなに無理と思えても必ず成就するはずのものでした。その祝福の言葉通りに頑張ったら本当に成就した、と証言する人もたくさん居ますし、私もたくさん証言してきました。

宗教が怪しいとか、ネガティブなイメージをお持ちのかたも中には居るでしょう。不快に思われたらすみません。

でも、私は当時、その神様の言葉があったことで、「いつどのような方法でかはわからないけど、いつか私は治るんだ」と心底信じることができていて、医者や学校の先生に何を言われても、どんなに苦しんでいても「自分は治る」と信じられたんですよね。こんなに信じて頑張れたのは、その「信じる」力が心の拠り所になってくれたからだと思います。

また、親や親戚も皆同じ宗教の信者でしたので、神様の言葉を信じやすい環境でした。「医者には治らないって言われたけれど、神様の言葉ではいつか治るって」と話せば、皆疑うことなく「良かったね、神様がそうおっしゃるなら、今は苦しいだろうけどいつか治るよ。大丈夫」と言ってくれました。

また、私たちが信じている神様は、無条件で祝福を与えてくださることはあまりなく、私たちが自ら考えて模索する努力の中でその力をいつのまにか120%に持ち上げてくれたり、思いがけない素晴らしい出会いをくれたりする、というような事を信じていましたので、思考錯誤しながら治ろうと頑張ることも、あまり苦痛に感じることなくできました。そうすれば治る方向に進めてくださるという信仰心?というか、信じる心があったから。

 

何かをまっすぐに信じるって、すごいエネルギーを生み出すようなすごいことだと思うんですよ。

多分、私一人ではできないんですね。例えば、私が一人で「病気は治る」と思っていても、周りが「お前はだめだ」「できるはずがない」と常にいい続けたらどうでしょう。それでも信じ続けられる方はいらっしゃるかもしれませんが、私は無理なんです。「ああ、治らないんだ」「私はだめなやつなんだ」と思い込んでしまって、無意識のうちに「私は治ってはいけない人間なんだ」と考えてしまい、治る努力も妨げられてしまったと思うんです。

でも、神様のことばが、「治る」といつも背中を押してくれていたことで、努力をすることに「うまくいかなかったらどうしよう」と長い時間躊躇することは少なかったし、絶え間なく努力することができたんです。

結果、治ったと言っていいほど回復しました。

このことから、宗教かそうでないかに関わらず、「心底信じる」(宗教でいうところの「信仰心」)ということには、ものすごいパワーが秘められているんじゃないかなあって、私は思うのです。

中学校卒業、の壁

皆さんは、中学校って成績が悪くてもただ普通に過ごしているだけで卒業できちゃったなー、というイメージありませんか??

中学校時代不登校だった方はわかると思うのですが、実は中学校にも卒業の危機があります。

「あなた、このままだと中学校卒業できないですよ」

私の当時の中学校への出席は、一年生の最初の一ヶ月のみで、あとは全く行っていませんでした。私が不登校だった当時、校長が厳しい人で、こんなに出席していないのに卒業・進級させるなんてできない、みたいな考え方の人でした。

救済措置として、担任が定期的に家を訪問して私にあったり、親と面談することで、なんとか認めてもらうことができていましたが、それでも卒業は怪しかったです。

また、担任が自分のために来てくれる、ということが、当時は「学校に来ないあなたがダメだから先生はわざわざ行かなきゃいけないんだ」みたいなメッセージを感じてしまっていて、とても会いたくありませんでしたし、会うと考えるだけで調子が悪くなったり、会いに行けなかったことも多くありました。

でも、三年生の時に校長が変わり、その方は不登校児童に対して大変理解のある方で、最後の一ヶ月は登校するように頑張っていたのを見て「最後に来られて偉いね!」とおっしゃってくださって、以前の校長の「卒業なんてさせられない」とは真逆のことばに、母親が感激していたのを覚えています。

ちなみに、私はというと、当時は色々と他人事にしか思えず、中学校が卒業できないかもしれない、と言われても、打って変わって卒業が決まっても、校長に優しい言葉をかけてもらえても、何も感じない空っぽの心でした。

唯一分かったのは、「あ、高校に入学する資格がもらえた。これで、なんとか生きていけるかもしれないらしい。」ということでした。親に「中卒は就職できない」「幸せになれない」「苦労する」と耳にタコができるほど聞かされていたので、親が禁止する道に踏み込まずに済んだな、ぐらいで、なんの感動もありませんでした。

大人になって

大人になって、昔私がとても可愛がって遊んでいた子供に久しぶりに会ったのですが、彼女は今現在中学校不登校で、やはり彼女も卒業の危機の話をされていました。「あなたはどうやって卒業したの?」と彼女の母親に聞かれても、何もいいことは答えられず歯がゆい思いをした苦い経験があります。

「私は運が良かった。」

それだけで片付けていいのでしょうか。私は、私の最後の校長がそうであったように、中学校ももっと寛容になって、不登校の子供でも中学校くらいは卒業させてあげてもいいと思うんです。勝手かもしれないけど、ただ生きづらい、というだけで、「不登校」という道を選んでしまっただけで高校入学資格が得られないなんて、子供の可能性を大人が摘み取ってしまっているような気持ちになってしまうんです。

周りの大人が言うように、若いうちから集団生活になじむことは社会に出る上で大切なのかもしれない。でも、それよりも先に、どこかの集団で「認めてもらえた」「自分は存在していてもいいんだ」と感じることの方が先じゃないでしょうか?それを感じるために学校に行かない道を選んだり、感じられないがゆえに学校に行けなくなったとして、その子は本当に「落ちこぼれ」なのでしょうか?

落ちこぼれ、ということ

落ちこぼれの烙印を押すのって、結局大人じゃないですか。烙印だけ押してそのまんまなんて、あんまりですよね。せめて、救済措置もセットで考えないといけないと思うんですよ。そうなってしまった子供でも、また社会に復帰できるような道を整えてあげなきゃあ、あんまりです。

私が8年くらい前に困っていたのと全く同じことで、困っている人が目の前にいる。こんなに悲しいことってあるでしょうか。不登校児童の問題がないがしろにされていると感じざるを得ないです。

 

そして、これは、大人の責任だと思うんです。

だって、子供は、社会のことを何も知りませんもの。自分でどうやって食っていったらいいのかも、社会の仕組みも、自分がいま人生のどこにいるのかも、なんにも自分のこととして実感することができない。バイトすらできない。中学生は、本当にまだまだ子供なんです。

子供だからこそ、大人に「お前が悪い」と烙印を押されると、それが正しいと信じ込んでしまうんですよ。親が社会に抗って自分の子供を助けようと頑張ってくれたらまだいいですが、そうではなく、親がその子供に「お前が悪い」という烙印を押して突き放してしまったら、その子はどうしたらいいんでしょう。誰も助けてくれる人がいない、本物の孤独ですよ。その中では、「自分たちは不当な扱いを受けている」なんて気づけないんですよね。だって、親の言うことが正しく感じちゃうから。

 

困っているのが子供だからこそ、私たち大人が彼らがより良く生きられるように一生懸命考えてあげて、道を用意してあげなきゃいけないんじゃないかなあって。

私みたいなまだまだ未熟な若者が言うのは説得力が足りないかもしれないけれど、このテーマは、キュウがこれから周りに訴えていきたいメッセージのひとつです。

 

このテーマでもう一個ブログかけそうだなあ。笑

おわりに

書きたい放題書いてしまいましたが、今回言いたかったことは大きく二つ。

・「信じる」力は、周りの大人が「大丈夫」「あなたにはできる」と言ってくれることで何倍にも膨れ上がると思う。(逆に、「できない」「あなたには無理」という言葉は、かけられた人の可能性を潰してしまう力がある。)

・中学校で不登校になってしまったからといって、中学校が卒業できないのはおかしい。落ちこぼれの烙印を押すなら、救済措置もセットで考えるべきだと思う。

だから私は、周りの人たちに信頼を表せるように頑張りたいし、不登校の子供たちを支援するような活動がしてみたいんですよ。

 

方法はわからないし、いつ実現できるかもわからないけど。

近い将来、実現できると信じて・・・。

 

前に進んだら、報告しますね。

 

では。また来月のブログで会いましょう!

 

 

以上、ココトモライター・エディターチームのキュウでした。

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