表現する、ということ。
edit2016.02.23 1,443
ココトモメンバーの「葉音」さんという方が書いていたブログ(「私がセクマイになった理由~①祖母からのトラウマ~」)を読んで思うことがあったので、ブログにします。
私は以前、姉妹サイト『集え!過食女子!』のお手伝いをさせていただいた関係で、「過食症」「摂食障害」などについていろいろ勉強をしたことがあります。
「病気」や「障害」について学んでいく中で、自分の「未知さ」を痛感しました。
過食症が難病指定されていること。完治できるような特効薬があるわけではないこと。誰でもかかる可能性がある(私だってなるかもしれない)ということ。それを経験した人しかわからない葛藤や苦しみがあること。他にも、たくさん。知らなかったことだらけでした。今もきっと知らないことだらけです。
知らないことだらけではありますが、そんな私なりに「気づいたこと」をブログにしようと思います。読む人それぞれの立場、環境、感情などによっていろいろ思うことはあるかと思いますが、一個人の意見として聞いていただけたら幸いです。
学んで、気づいたこと。
病気や障害を学ぶ機会は、今はあまりにも少ないです。私はたまたま、そういったものを抱えた人たちと知り合う機会に恵まれて、現状や課題を知ることができました。けれど、興味を持って能動的に知ろうとしなければ、誰も教えてくれません。
まるで「触れてはいけないもの」みたいに。学校でも家でも、病気や障害が話題にのぼることはありません。
自分が暮らしている日常や常識を疑うチャンスさえないのです。
世の中に摂食で悩む人が居ることさえ、私は知りませんでした。「知識」として「摂食障害」というものの存在を知ってはいました。けれど、それはまるで絵本の中の世界のように、遠く遠くの出来事で、まさか「誰でもなりえるものだ」なんて、ましてや「自分と同世代の女の子がそれですごく悩んでいる」だなんて、「難病に指定されている」だなんて、知る由も無かったのです。
もちろんデリケートな話題ではありますし、難しいです。チラッとネットで調べたくらいで我が物顔で語ることは、私にはできません。けれど、だからといって「触れてはいけない」ものにするのは違うと思うのです。「私には関係ないから」って知らんぷりするのも、まるでくさいものに蓋をするようにするのも、なんだか違う気がするのです。
デリケートで難しいからこそ、正しく知ることが大切なんじゃないでしょうか。
「正しく知る」ってなんだろう。
今では、ネットに繋がってさえいればさまざまな情報を一瞬で手に入れることができます。
今晩の献立だって、早起きする方法だって、オススメのご飯やさんだって、もう迷うことはありません。
しかし、その全てが正しいわけでもありません。
たとえば私が体験した「いじめ」にも、様々な見方があります。
「いじめはいじめられた側にも責任がある」と言う人。
「いじめは家庭環境がよければ起こらない」と言う人。
「ものを隠されたぐらいでいじめだなんて被害妄想だ」と言う人。
「無理して学校に行かなくてもいい」と言う人。
「学校に行くのは当たり前だ、学校に行かないなんて甘えだ」と言う人。
これは、「どれが間違いだ」「どれが正解だ」みたいな問題ではないと思います。100人いれば100種類の価値観があるのは当たり前で、むしろ全く同じ価値観の人がいたらそれはそれで衝撃なんじゃないでしょうか。
大切なのは、自分で取捨選択をしていくこと。ひとつひとつの価値観を吟味して、「ここは受け入れるけど、こっちはこういう考え方の方がシックリくるなぁ」みたいに、「自分の価値観」に加えていくことだと思うのです。
「正しく知る」というのがどういうことかといえば、私の場合は「自分が間違うかもしれないと知った上で知識を得ること」だと思います。
この「正しく知る」、単純に見えて中々難しいです。
つい自分の体験談が全てだと思ってしまったり、つい自分に合わない価値観を「間違っている」と糾弾してしまったり、見えてる世界はフィルター越しの世界かもしれないのに「これが正解です」と勘違いをしてしまったり。間違うことだらけです。
ひとつの価値観を見ても、人によって意見はさまざま。「正解だ」と言う人もいます。「間違っている」と言う人もいます。「ここは分かるけどこっちは分からない」と言う人もいます。
そのどれも、ある意味間違っていてある意味正解なのだと思います。
結局は、受け取る人しだいなんじゃないでしょうかね。
私がブログを書く理由
私は現在、ココトモの姉妹サイト『ティーンズプレイス』で、一日一件以上のペースでブログを書いています。
そのブログのほとんどは、価値観や体験談、考え方など「私の内側にあるもの」です。
もちろんそれを「正解だ」と言う人もいます。「間違っている」と言う人もいます。「ここは分かるけどこっちは分からない」と言う人もいます。
でも、それでいいのだと思います。
私が「過食症」というものを学んだとき、過食症の体験談を発信している人の「強さ」を感じました。今もなお苦しみながら、それでも誰かのために力になりたい、自分の経験を活かしたいと、赤裸々に自分を語っている人もいらっしゃいます。
もちろん全ての人が自分の体験談を発信しなくてはいけないというわけではないし、体験談を発信していない人が「弱い」とも思いません。人それぞれ、物事との向き合い方があると思いますし、必要であればすればいい、くらいのことだと思います。
私はたくさんの人の体験談に勇気づけられてきました。たくさんの価値観を見ることで、自分の世界を広げてきました。
ただ、「自分の体験談を発信する」ということは、とても勇気がいることです。もしそれに否定的なコメントが届けば「ブログが否定された」だけでなく「自分が否定された」と感じてしまうかもしれません。それほどまでに繊細で、弱いものなのだと思います。
だからこそ、冒頭に書いた葉音さんのように、「自分の体験談を発信している人」は、すごく尊敬します。それが特別なものだとか、誰もが経験するようなものだとか関係なく。
そしてこれからは、自分の体験談を発信していきたいです。価値観を、言葉にしていきたいと思っています。
それを「間違っている」と言う人の言葉も、それを「正しい」と言う人の言葉も、等しく大切にしてゆきたいです。
鷹れん
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