左利き。異性愛者。神奈川県出身。四人+一匹家族。毒親の娘。

こんばんは、鷹れんです。
左利きで、好きになる人は異性で、神奈川県出身で、四人家族の末っ子で、(恐らく)毒親に育てられた、鷹れんです。

タイトルを読んで、あなたはどう感じましたか?

病気。障害。同性愛、あるいは両性愛、無性愛、非性愛。出身地。家族構成。外見。経歴。好き嫌い。得手不得手。
人には、ひとそれぞれの特徴があります。
共通する部分があったりもするけれど、まったく同じ、共通点しかないような人はほとんどいません。少なくとも私は、私以外に私のような人間を見かけたことはありません。笑
逆に、なんの共通点もない人というのもほとんどいません。
よく「この人とは分かり合えない!」とか「この人と私は一生合わない!」と激昂している友人の相談を受けるのですが、そのほとんどが「(自覚しているしていないにかかわらず)本人自身が思っている“自分の嫌いなところ”“直したいと思っているところ”」です。つまり、その人と接していていやだと感じる部分は、自分の欠点だってわけです。鏡をずーっと見せられてるから、直視したくないから「合わない!」と拒絶反応を起こしてしまうのかもしれません。

特別そうに見える芸能人や有名な人、あなたが敬愛してやまないあの人さえ、あなた自身と同じものをひとつやふたつは持っているのです。もしかしたら同じ野菜が食べられないのかもしれないし、もしかしたら同じような悩みを抱えているのかもしれません。

しかし世の中には、その「特徴」を持っているがために苦しんでいる・悩んでいる人が多くいらっしゃいます。
差別されたり、いじめを受けたり、批難されたり、居場所を追われたり、孤立したり。しかしそのほとんどは、「特徴」が直接的な原因ではないのではないしょうか。実際には、「特徴」をみたまわりの人たちが原因になってしまう、ということが多いと思うのです。

例えば私は左利きということで非常に悩まされました。はさみも定規も使いにくくて、習字の授業なんて苦行でしかありませんでした。しかしそれは「左利き」そのものが原因というわけではなく「左利きなのに無理に右手を使わなければいけない環境」だったり「そんなにつらいなら右利きになれば?と適応を強要してくる人」だったりが私の悩みのタネでした。
「両利き用のはさみがあるじゃん」なんて言う人もいるけれど、そもそも両利き用であって左利き用ではないので(右利き用よりはましだけれど)使いやすいもなにもありません。相変わらずハンディキャップはなくなりません。
左利き自体は欠点でもなんでもなくて、むしろ芸術センスに秀でやすいとかいうデータもあるのに、結果として左利きは「欠点」「欠陥」のように扱われてしまいます。

右利きのほうが多数で、左利きは少数だから?
道具のほとんどは右利き用につくられているから?
右利きと左利きになんの違いがあるんですか?

これと同じことって、けっこうある気がします。
出身地とか。血液型とか。

A型というと、きまって何人かは「じゃあ几帳面なの?!」とか「テーブルの上のリモコン揃えるんでしょ」みたいに言ってきます。
不登校だというと「かわいそうだねぇ」と言ってくる人がいます。
親がどうやら毒親のようだと話すと「せっかく育ってもらったのに」なんてため息交じりに言う人もいました。大きなお世話ですが、「違う両親のもとに生まれてきたらよかったのにね」なんて人も。

血液型だけで性格が決まるなんてたまったもんじゃないし変なこだわりはたまにあるけれどいうほどキレイ好きではないです。(そういうとまた「A型の人は小さなところにこだわるんだよー、当たってるじゃん!」なんて言ってくる人がいますがだったらあなたはなんのこだわりもないんですかって話です;)

不登校は私にとって「逃げ」「負け」の行動ではありません。学校に行っていなかった期間も確かにつらかったけれど楽しいこと幸せなこともたくさんあったしその一日一日が、一瞬一瞬がいまの私をつくっている、大切な思い出です。それを「かわいそう」なんて五文字にはまとめてほしくないし、そもそも自分のことをかわいそうと思ったことなんて、かわいそうと思ってほしいと思ったことなんて、この19年間で一度もありません。

そして、確かに両親にはこの年まで面倒を見てもらっているし私がいま生きて大学に通ってパソコンを使えているのは両親のおかげです。けれど両親の言葉で私は深く傷ついたしそういうところまで全部含めて「ありがとう」なんてまだとてもじゃないけど言えないです。だからといっていまの両親にこれっぽっちも思い出がないかというとそうでもなくて、そもそもどうでもいい人だったらその言葉で深く傷ついたりはしません。「せっかく親に育ててもらったのに」というセリフも、「違う人のもとに生まれたかった」というセリフも、言っていい言葉ではないし、仮に言うとしてもそれを言えるのは本人だけだと思うのです。

特徴ごとにカテゴリー分けをして、「○○な人は~だよね」と決めてかかるのは、よくあることです。
発達障害の人ってこうなんでしょ? 同性愛者の人ってこうなんでしょ? 男の子だから青が好きでしょ? なにも特別なことではありません、私含め、いろいろな人がよくやってしまうことです。

「女の子らしい」「女の子なのに」がずっと嫌いだった。

私は、すごく小柄だったりしたこともあり、よく「かわいいねぇ」「女の子だねぇ」と言われました。小学生のときから、その言葉がずっと嫌いでした。赤も好きだけど青も好きだし、お人形遊びも好きだけど鬼ごっこも同じくらい好きでした。

女の子は赤色のランドセルと黄色の名札。男の子は青色のランドセルと青色の名札。そんな枠決めが嫌で、 そこから逃げるように、私は兄のおさがりのTシャツと短パンを履くようになりました。「女の子なのに」なんて言葉も嫌いで、それらが聞こえないように、クラスの男の子たちと泥んこになって遊んでいました。

けれど中学生になると、制服がでてきました。別にスカートが嫌だったわけじゃないし、小学校とは違って大人に近づいたような気がして胸が躍ったりもしたけれど、友達とかけっこして遊べないのはやっぱり嫌で、学校についてすぐにジャージに着替えていました。でも、どこかで意識しだす人たちがいて、その意識がまた伝染して、いつしかクラスは女子と男子がわかれていきました。
「鷹れんちゃん女の子なのに変~」「このオトコオンナ!」そう言ってくる人たちもいて、私もやむなく女の子グループで遊ぶようになりました。

仲のいい男友達はいたけれど、もうかけっこしても追いつけなくなっていたし、体育も男女別になって、以前のように遊ぶことはなくなっていきました。
たぶん、ちょうどそのころから生理が始まったりなんだりがあったのだと思います。女の子は女の子同士で内緒話をするようになり、男の子は男の子同士でグラウンドに駆けていくようになりました。仲のよかった男の子とはいつしか苗字で呼び合うようになって、二人で遊ぶと冷やかす人たちが出てきました。

やれ何組のだれそれ君がかっこいいとか、やれ何組のなんとかちゃんとなんとか君が付き合いだしたらしいとか。「よく飽きないなぁ」とため息を吐きたくなるくらい恋バナを繰り返す女の子たち。辟易としながらもどこかで孤独を恐れてそれに付き合っていた私。

初恋はそのころには終わっていたし、「○○君かっこいいなぁ」なんて胸キュンすることもあったし少女マンガも好きだったし好きになった人のことをつい目で追ってしまうなんてこともあったし一丁前に告白してフラれたりもあったけれど(笑)、なんだかまわりに「女性になること」を強制されているようで、なんとも居心地が悪かったです

「高校生は恋愛しなくちゃもったいない」

高校生だった3年間、ありとあらゆる人から言われました。
でも私は恋愛にそもそも興味がなく(好きな人がいないとかではなく、「彼氏欲しい」「恋愛したい」という気持ちが理解できないということです)、いわゆる「性」に関してはもっと興味がなく、どこで誰と誰かくっつこうが誰が失恋しようが、特段「きゃー!!」とはなりませんでした。「へぇ、よかったね」「いつでも電話しておいで」このくらいです。
それよりも読書してる時間や複数人で思い切りフリスビーをやっている時間や数学を学んでいる時間のほうがよっぽど有意義でよっぽど幸せでした。

恋愛に重きを置く人生も大変結構、人との愛に生きるなんてすばらしいことはありませんか。ただ私は違うというだけの話です。
それなのに多くの人は「そうは言っても恋愛したら変わるんだよ」だの「10代のうちに恋愛とかないと~」だと言ってくるんです。……余計なお世話だ!!笑

実は私は中学生のとき、「自分は同性愛なのか」と感じた時期がありました。
結果としてそれは思春期の一時的な感情でしかなかったわけですが、悩み不安だった私はいろいろな本を読みました。ネットで情報を探しました。

調べ始めてしばらく経った頃、「同性愛は異性愛へと発達する途中のひとつの段階に過ぎない」というような言葉を見かけました。
“多数派ではない”かもしれないという不安から開放され一時の安堵を得た私は、もうこの問題をすっかりと忘れて、すくすくと育っていきました。

しかしある日、たしか高校一年生のとき。クラスメートの女の子から同性愛者であることを打ち明けてもらったことをきっかけとして、私はひとつの疑問を持つようになりました。

「同性愛の人は、異性愛に比べて劣っているということであろうか?」

同性愛が異性愛への発達の過程ということは、同性愛はやがて異性愛になるのだろうか。
けれど目の前の彼女は、自分の好きな人のことを話すときに、本当に楽しそうな顔をします。それこそ、部活の先輩がイケメンだとわーきゃー騒ぐ女性勢にも劣らないような勢いで。

この問題への答えは19歳になった今でも明確にはもてていないけれど、私はその子のことを「劣っている」なんて考えたことは一度もなかったし、彼女も自分の特性を「ダメなもの」と捉えることはありませんでした。彼女なりの葛藤はあったと思いますが、なにより彼女は彼女自身をとても愛していました。

世の中にはいろんな人がいる。当たり前なことなのに。

世の中には、いろいろな人がいます。
私があたりを見渡すだけでも、さまざまな人がいるのです。

今、「そんなの当たり前だよ」と思いましたか? そうです、当たり前なんです。当たり前なのに、当たり前だからこそ、私たちはそれを忘れてしまうんです。みんな違ってみんないい、って幼稚園や小学校で耳がたこになるほど言われたのに。

「少数派」は悪者?

少し前に「“多数派ではない”かもしれないという不安から開放された」と書きました。
私はちいさいときから、まわりを気にしてまわりに合わしてまわりの正解を自分の正解とするような子どもでした。

小学校の入学式のとき、私は両親と買ったかわいらしい水色のワンピースを着ていきました。
けれどまわりは紺色やグレーばかり。私以外に目立つ色を着ていたのは近所の双子ちゃん二人だけでした。私はひどく焦りました。クラスが発表されて集合写真を撮ったのですが、30人の紺色集団の中にいる3着のワンピースはこれみよがしに目立っていました。

そのときは小1だったしさすがに分からなかったけれど、「少数派」というのが怖かったのです。目立つということが怖かったのです。
多数派にいれば、仲間がいっぱいいる。みんないれば怖くない。自分が矢面に立たなくていい。ただ「そうだよね」と言っていればいい。そんなふうに考えていました。

中学生のときにいじめられたのも、私が「まじめに授業を受ける」少数派だったからです。私の歌い方が特徴的だったのを笑われたこともあります。(どうやらまわりと揺れ方(リズムの乗り方)が違うらしく、いつも「鷹れんの真似しま~す!」と笑われていました)

「少数派の意見こそ大切にしましょう」なんて嘘ばっかり。みんな同じが正しくて、みんなと違うものは悪者になる。だから目立たず、特出せず、合わせて生きていこう。
それから私は誰かの前で表現したり話すことにとても臆病になりました。

本当に大切なこと

なにかの病気や障害を抱えている人もいます。同性愛、あるいは両性愛、無性愛、非性愛の人もいます。出身地だって多岐にわたっているし、家族構成も(割合の差はあれど)千差万別。外見も誰一人として同じではないし髪色だって茶色だったり黒だったり金ぴかに輝いていたり、あるいは眼鏡をかけていたり、あるいはかわいらしいまん丸おめめだったり。経歴だって、好き嫌いだって、得手不得手だって。

私は左利きで、異性愛者で、神奈川県出身で、四人+一匹家族の末っ子で、毒親の娘です。
左利きで不便を感じることも、兄と比較され葛藤することも、親の言葉によってついた傷が未だに誰かに(あるいは自分の手によって)えぐる・えぐられることもあります。

でも私は、自分が大好きです。

左利きで、異性愛者で、神奈川県出身で、四人+一匹家族で、毒親の娘である自分が、大好きです。
そりゃときには「こんなこともできないなんて駄目な人間だ」と卑下することも自信をなくすこともあるけれど、「自分を好きですか、嫌いですか」ときかれた今の私は間違いなく「大好きです」と答えます。

大切なのは、そこなんじゃないでしょうか。

高校生のときのあの子は同性愛ということをまわりに公表してはいなかったしクラスの恋バナ大会では適当に話を合わしていたけれど、なにより自分のことが大好きでした。

どんな特性をもっていようと、どんな荷物を抱えていようと、どんな言葉をまわりからぶつけられようと、「自分を愛する」ということができていれば、それでいいんじゃないでしょうか。

実際には自分への愛を保つのは簡単なことではなくて、そこには自己肯定感とか自信とか環境とかさまざまなものが影響してしまうのですが……だから私は、だれかが自分を愛するためのお手伝いができればと思っています。

自分では自分のことが嫌いでも、誰かから一身に愛情を注いでもらえたら、「私はあなたのことを愛していますよ」と表現してもらうことができたなら、「あの人のために自分を大切にしよう」と思えるかもしれない。まわりの誰かの言動を足がかりに、いつか心の中の自分に「大好きだよ」と言えるかもしれない

別に自分で自分のことを嫌っていたってかまわないけれど、一生の中で一番長く付き合うのは自分なのだから、どうせなら自分を大好きでいれたほうが、どちらかといえば生きやすいんじゃないかなぁ、と思うのです。

私は、ずっと自分のことが嫌いでした。右利きの道具にうまく適応できない自分が、親のこと「毒親」と表現できてしまう自分が、大嫌いでした。
でも、これまでの数々の出会いのおかげで、まわりの人たちのおかげで、少しずつ自分のいいところを知れて、どんな特徴も一長一短であることを知って、今では胸を張って「自分のこと? 好きですよ!」と言えるようになりました。
だから次は私の番。
あの時のあの人たちよりもずっとずっと不器用な私だけれど、愛を生むための、育てるための、お手伝いができたらいいなぁ。

鷹れん

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コメント一覧

全3件
  1. schedule2016.05.24

    ぬい

    “自分では分からないもの”“自分では理解できないもの”
    そういうものに出会うことってきっとあるんだと思います
    理解できないとき、それを否定する
    そういう心って意外と誰もがもってたりするような気が私はします
    自分の考えている範疇の外にあることは異常だ
    そういうふうに考えることは人間の本能としてあるのかもしれませんね
    けれど自分の理解の及ばないものに出会った時少し冷静になって
    それは理解できないけれど否定しなければならないものなのか考えられるようになれば
    少し見える世界が違うのかもしれませんね

  2. schedule2016.05.21

    あつ

    こんばんは。

    多数派と少数派、効率的にことを成す為に、多数決という手段が生まれたが故に、多数派と少数派という概念が生まれた。少数派の為にモノを作るとコストがかかるので、多数派向けのモノばかりしか無い。

    30数年生きてきて思ったことです。
    私ですが、群れること、を極度に嫌ったが故に常に少数派でした。おかげ様で、未だにチームプレーは苦手(笑)。

    ただ、こんな私でも、会社という組織で、プロジェクトリーダーを務め、プロジェクトマネジャーを務め、管理職。

    結果的に言えば、少数派も社会には必要なわけです。

    少数派だから、人と違うから…卑下することは無いです。『何だよアイツwww』と周囲から言われてきた人が時代を変え世を変えてきたのは、歴史が証明しています。

    人と違う観点からモノを見、考えられる。これって、とても素晴らしいことなんですから♩

  3. schedule2016.05.20

    yusu

    鷹れんちゃんのブログ、いつも共感しながら読んでます。
    学ぶこと、改めて考えさせられることも多いです。

    私も、中学の不登校時は逃げじゃないって思ってたし
    高校時代は、無理やり男の子と付き合いたいとも思えなくて
    少しれんちゃんに似てたかな。

    小学校から高校までは、女の子を好きになったり、
    女の子への性的欲求があったりして
    でも、今は男性とお付き合いしてたりで
    あー、そういうこともあるのねと新たな知識になりました。

    人は、千差万別でみんな素敵なのに
    私は、人の好き嫌いが激しくて
    よく人をカテゴリ分けしたり、勝手な先入観もあるので
    あー、いけないいけないと反省しました。

    いつも素敵なブログをありがとう。
    また、楽しみにしています。

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