私は、私の好きな部分を知っている

こんにちは、キュウです。

アイコンを変えました。

最近は特に、実際にあったときに「写真やアイコンとイメージが違う!」という声をたくさん頂くようになっていたので、そろそろそのズレを修正しなきゃと思いました。キュウは今こんな顔をしております。笑

今日は、そんな今の自分についてと、そんな自分の中の好きな部分について書いてみようと思います。よろしければお付き合いください^^

「キュウさんにはなぜ自信がないの?」

見出しの文は、この間ココトモハウスに来てくださった方から頂いた質問です。彼から見れば、私は自信があって当然の人間に見えるそうで、でも、私は自信がないからこそ私らしくあるのではないかと勝手に思っていたりもして、そこから色々考えました。

私は特に偉い存在でもなければ、いつも良いことばかり言える人間でもありません。失敗もすれば成功もします。また、間違いながらも正しくあろうとする過程で「そもそも正しいとか間違いってなんだろう」というループにはまっては、「心の鎖ワード」を見つけては外そうとし、見つけては外そうとし、心の自由に向けてもがいている最中の人間です。

そうしてなかなか外しきれない自分にもどかしさを感じながらも、「それが人間らしさだ」と、自分が特別に変でないことにどこか安心している部分もあります。

そんな「自由」になりたがっている自分の心の願いに突き動かされながらも「束縛」のメリットに思いを馳せ、なぜ今自分が「自由になりたい」とそんなに強く望んでいるのか不思議に思いながらも、心に素直に生きることが好きだと全身が叫んでおり、”自分をいつでも客観視して冷静に居なければならない”と考える固い頭に、”感情に素直に主観的に物事を捉える人間らしさもまた、今の自分に必要な要素だ”と感情が訴えかけ、頭の中で大混乱が起きています。

そうして、混乱の中で生き続けていた時に、そんな人間が少しでも「生きてても良いんだ」と自分を許せたエピソードを話すことで、心の荷物が軽くなる人がいることを知り、心の荷物が軽くなった場面に遭遇すると喜びを感じ癒されている自分にも気づきました。

「人のために」と考えることがいけないことだとずっと言われていたけれど(その前にまずは自分を大切にしなさい的な)、実は、必ずしも「他人の利益を思って行動することが自分のためになっていない」ということではない気が、最近はするんです。

“誰かのために行動し「喜んでくれた」という結果を受け取ることに大きな喜びを感じる”という自分の好みに合わせて、その結果を受け取りたいがために行動しているという、自分のために動いている私に気づいたからです。

また、自分が人に愛される時に感じる喜びと、自分が人を愛する時に感じる喜びが違うことも発見し、自分は「人を愛している」という気持ちを感じることによる満たされた気持ちが好きなのかもしれないと思い始め、自分がいつの間にか愛するようになった人たちに接するたびに「この人たちを愛している」という感情を感じている自分に満足し、愛するって実はとても自己中な気持ちだなあと思い。

それでも、「そうやって大切な人を「愛する」気持ちが好きだから、それはやめないで続けていこう」と、勝手に大切な人たちを愛していこうと改めて思ったりもしています。

それと同じ時期に、愛されることの喜びも肌で感じ、愛し愛される大切な人たちに囲まれている今に感謝したりとか。

そういう色々をすべてひっくるめて「人生は順調だ!」と考える反面、色んな事がしんどいなぁ〜と思ったり、頭の中が忙しい人です。

 

それが、きっと私らしさでもあるのでしょう。多分、私の頭が忙しくなかったこととかってあんまりないんじゃないかなあ。

心の動きにとても敏感で、素直に、まっすぐに心を感じながら、そしてそれを表現しながら、不器用に生きる存在。それが、今の私の心地よい生き方なのかもしれません。

 愛する気持ちへの満足感

私には、愛する人たちが居ます。

その一人である鷹れんちゃんは、私の分身のような存在です。

それは、過去の経験から心に得た傷や気持ちがとてもよく似ているから。それだけでなく、見た目も昔の私そっくりで、私の服を着せたら昔のガリガリだった頃の自分が目の前に居るような錯覚に陥ったし(その写真を私の親に見せたら、親も鷹れんちゃんの事を一瞬私だと見間違うほど)、今の生き方も、なんだか19の頃の私を見ているようで。今の私はその5mmくらい先を歩いてるようなつもりなんですが、彼女がどう思っているのかはわかりません。彼女も私に親心のような愛情を抱いているような気もするし。笑

ただ、勝手に5mmくらい先を歩いてるようなつもりになっているからこそ、彼女の心が持っているであろう「心の鎖ワード」を予想しては、それを重荷ではない方向に受け入れられた私の心をブログにすることで、間接的に伝えてみたいと感じるようになりました。お節介なんだろうなとは思いつつ、親に関するブログを書くときは少なからず鷹れんちゃんの事を思い浮かべながら書いています。多分、そんなことは知らないんだろうなあ。笑

いつも側にいることはできないけれど、側にいなくても、心のどこかではいつも気にかけていて、大切にしたい存在です。今では、少しずつ頼れるようにもなってきたかな。前はあんまり私の話をすると彼女が混乱するだろうと思うあまり話そうという気持ちにはなれなかったけれど。それでも、好きなことに変わりはなかったと思います。まあでも、前よりも今の方が愛する気持ちは深まったかな。笑

 

この間、鷹れんちゃんを含む数人で「お互いのいいところ」を言い合う時間がありました。でも、私が鷹れんちゃんのいいところを言う番になったとき、パッと思い浮かぶ事が一つもなくて。

自分でも驚いたし、それによって彼女も少し傷ついてしまったように思いました。でも、

【なんでこんなに好きなのに、良いところがパッと思い浮かばないんだろう。】

と考えると、ある気持ちが見えてきたんです。それは、

私は「鷹れんちゃんが○○だから鷹れんちゃんが好き」という基準で彼女を好きなのではない。彼女が彼女らしく生きていればそれでいい。どんな彼女でも、彼女が彼女であることが好き。彼女の存在を愛している。

という気持ち。

だから、普段から「この人のこれが良いから好きだ」などと考える必要もなく、そんな発想もなく、ただ好き、愛してるという感じだけが残っているのだろう。

それに気付いたときに、愛してるという気持ちが溢れ、それと同時に【鷹れんちゃんを愛してる自分が好きだ】と思いました。そして、それは彼女にとっても良いことであるといいなと思いました。

幸運なことに、今のところ彼女も私の事が好きみたいです。笑

 

また、私が「愛してる」と感じる人は鷹れんちゃんだけではありません。関係がもっと浅くても、愛する気持ちを感じることはありますし、関係がもっと深くても、愛する気持ちを感じることがあります。

そういう、愛する人たちに囲まれることで、そして、彼らを愛してるという気持ちを感じることで、私は心楽しく居られる時間を貰っているんじゃないかな。

そして、彼らもまた、程度の差こそあれ、私の事が少なからず気に入っていて、私との時間を居心地よく思ってくれていることが感じられたときも、また違った喜びを感じ、「幸せ」だと感じるのでしょう。

そういう、「愛してる」「愛されている」と感じられる心地よい繋がりもまた、今の私の生きる喜びだと思います。

新しいはじまり

全然関係ない話ですが、実はこの間、人生の大きな転機が来ました。そしたら、今までは無理だと諦めていた望みが、ムクムクと膨れ上がってくるのを感じました。

いま、私はすごく海外に飛びたいです。

自由に、素直に、自分の人生を生きてみたいんです。

本当に偶然ですが、大きな転機が来たあと、海外で育った人の話を聞く機会があり、その話に心が動くのを感じ、そういえば自分は昔から海外にあこがれていた、ということを思い出したんですよね。そういえば私は、【いつか海外に飛びたい。自分に合う国を探してみたい。知っているのが死ぬまで日本だけじゃ嫌だ】というようなことを思っていたのでした。

私は上に書いたように、【人を愛する・愛される】繋がりが好きなので、世界のもっと色んな人と接したいし、もっと色んな価値観に触れて自分の視野を広げたいんですよ。もっと、もっと、自由になりたいんです。今以上に、自由に羽を伸ばして、心に喜びを感じながら生きてみたい。

今はそのために色々準備中です。笑

そのうち、良い報告ができたら良いな~(笑)(笑)

 

終わりに

今回のブログはいかがでしたか?笑

私は、このブログを書くことで、改めて自分が人を愛する・愛される事にとても喜びを感じる人間だということがわかりました。

 

皆さんの喜びや、自分の好きなところはなんですか?

 

では、また次のブログでお会いしましょう!

 

キュウ

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