愛ってなんだっけ

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こんにちは、キュウです。

メリークリスマス!世間はすっかりクリスマスな雰囲気ですね^^私は今年も一人でクリスマスを迎えました!!いわゆるクリぼっちというやつですね(笑)(笑)このブログを書き終わったら、ちょっとだけココトモハウスに行ってこようと思います。

さて、今回のブログはクリスマスとは関係ないのですが、この間友人と電話をした時の言葉に深く感動したのと、最近の「アダルトチルドレン(以下、AC)へ向き合いましたレポート」を書きたくなったので、ブログにしようと思います。

よろしければお付き合いください^^

5年以上付き合いのある友達

その前に少し、電話をした彼女と私との関係を説明すると、、、

彼女がもともと居たコミュニティの中に私が入った形で知り合い、それ以来五年以上も細々と関係が続いている仲です。コミュニティに属していた当時は月に2〜3回の頻度で会っていましたが、今はもうどちらもそのコミュニティには属して居ないため頻繁に会う機会もないしあまり連絡も取りません。ふと「元気かな。。。」と思い出してはLINEするような感じの関係です。

彼女は、知り合った当初引っ込み思案で人を警戒していた私に積極的に話しかけ友達になってくれたばかりでなく、私がココトモハウスで看板スタッフを始めた当時わざわざお金を払って会いにきてくれたり、もう何年も継続的に「キュウちゃんのことが大好きで尊敬している」と言いつづけてくれるような、なぜか私に会うだけで嬉しそうな顔をしてくれるような、とても不思議な友達です。

そう書くと、そんな友達が居るという自慢みたいになってしまいそうで申し訳ないのですが、このブログではその友達を自慢したいわけではなく、私は本気で彼女のその気持ちが不思議でたまらないということが書きたくて。

私自身は、自分が尊敬できる考え方や価値観に出会った時に「この人のこの考え方尊敬する!」と感じるような人で、どちらかというと「人」に魅力を感じるというよりは「その人から生まれた物や価値観など」に魅力を感じるタイプなので、「この人の価値観が好き!尊敬する!」はあっても「この人が好き!尊敬しちゃう!!」みたいな言わば”ファン”のような気持ちを人に対して感じることはあまりないんですよ。私にとってはその感情と「愛している」とはまた別の気持ちなのですが。
そのためなのか、彼女に「キュウちゃんが好き!尊敬する!」という健気な気持ちを向けられるたびに「この人はなんて純粋に人を尊敬し好きになるんだろう」と、逆に尊敬の気持ちが湧いてしまって。

なんというか、私には勿体無いくらいの眩しいキラキラとしたものを向けられているような「果たして自分にはそう言ってもらえるだけの価値が本当にあるのだろうか?」と反射的に自己反省してしまうような気持ちというか。

しかも、知り合った当時は「どうせ私には彼女の言うような価値はないんだから、何かの拍子にそれに気付いて私に失望し、違う人にその気持ちを向けるようになるだろう」と思っていたのが、もう出会って5年以上も経ってるのに飽きるどころかその気持ちが穏やかな形で膨らみながら安定していっているようにすら感じるという、私にとっては本当に不思議な気持ちを持っている人が、私から見た彼女です。

彼女は何故こんな風に人を愛せるんでしょう。

その愛を向けられるたびに私は怯みます。そんな愛などあるわけがないと否定してしまいたくなる衝動にすらかられます。それと同時に、こんな風にまっすぐに私に向けられる愛もあるのだと信じたい、心が揺さぶられるような感覚もあります。

愛ってなんだっけ

そういえば、最近苦しくなることがあります。(話はここから長らく「ACと向き合いましたレポート」へ脱線します)

共依存やACを学んでいくうちに、「そういえば愛ってなんだっけ」とわからなくなることが多くなりました。

例えば、この間ある本を読んでいる時に”子供の発熱の連絡を受け、仕事を早退して保育園に子供を迎えにきた母親が、心底心配そうな顔をして「○○ちゃん、可哀想に。。。お母さんが気付いてあげられなくてごめんね」と言って子供を抱く場面”に遭遇し、苦しくなりました。

なぜかというと、、、

働く親というのは会社では一人の社会人ですから、いくら子育て支援の制度が整っている会社に働いていたとしても、子供の熱を理由に早退するなどということはやはり心苦しいことだと思うのです。自分が今日終わらせなければならない仕事を他の人に任せるなどして早退するわけですから、少なからず「仕事を他の人に任せてしまう申し訳なさ」とか、「今日早退することで遅れた仕事の埋め合わせはどの時間でしようか」とかそんなことも意識していると思います。

それを踏まえて、先ほど例に挙げたお母さんのシーンは、そんな状況の中でそれでも子供が大切だから迎えにきて、なおかつ心底心配しながら子供の心を気遣っている。という風に私の目に映りました。

そして、その時の私の心は「果たして、自分は(せめて赤ちゃんのときには愛されていたと思いたいけれど)本当にこんな風に愛されていたのだろうか?」という気持ちになってしまって。

記憶がないので確かめようがありませんが、残念ながらそのような記憶は(未だに蓋をしてあるのか、それとも本当にないのかはわからないけれど)今思い出せる範囲にはなくて苦しくなってしまうというか。

愛しているという気持ちだけじゃ適切な関係は築けない

他にも、過干渉による適切でない愛しかたが問題視されている、というような内容の本を読んで「過干渉が”適切でない”ということはわかったけど、じゃあその”適切な形の愛”って何?どうすれば適切になるわけ?」という疑問で頭の中がぐるぐるしたり。

私はそんな愛を持っている形の家庭を知らないなあ、と虚しくなったりとか。

もう、毎日そんなようなことばっかりで。

多分、私の親に関して言えば「子供を愛している」という気持ちはあったと思うんですよ。しかし親自身が虐待の中で育ってきたため、”健康的で子供の発達に適切な接しかた”を知らずに、その愛は歪んだ形で私に向けられることになったんだと思うんです。

また、私自身も、もし今のまま自分に恋人ができたとして、相手が自分にとって特別な人だと認識したとたんに、遅かれ早かれ「”見捨てられる恐怖”のあまり相手に自分の素を出すことができなくなり、相手に怯える気持ちを抱えて苦しむ」というパターンが見えてきました。そして、万が一そのままその恐怖を抑圧して我慢し続けた結果結婚に繋がったとしたら、その満たされることがない辛い心を無意識のうちに子供に満たしてもらおうと求めてしまうのでしょう。それは、自分の子供を”無償の愛”では愛せなくなるということ。自分を満たして欲しいという気持ちの矛先にしてしまうということ。つまり、子供を自分と同じようなACにしてしまう可能性が非常に高いということです。

それを知った時の私は「ACの世代間連鎖って本当に起きるんだなあ」と実感したと同時に、自分の結婚願望やら恋愛願望やら子育て願望やらが一切崩れ落ちました。

子供を適切に育てるということがいかに難しいか、歪んだ愛や虐待により適切に育てられなかった人が健康的で適切に人を愛することの難しさというか、まあ要するに【愛しているという気持ちだけじゃ健康的で適切な関係は築けない】ということに気付いたというか。

しかも、それに気付いたのはいいですが、「じゃあ健康的な関係って何?」となって、そんなの知らないという答えにたどり着くたびに苦しくなるというか。

今はそれに対する「感覚的」ではなく「しっかり言葉で説明されているような」答えが欲しくて、本を読みつづけている部分もあるのだと思います。

いや、でもそれに関するヒントにはいくつかたどり着いてるんですよね、、、。ということは、「言葉での説明」+「自らそういう体験をして、実感として感じる」ことも必要なのかもしれません。

実は両親もACだった!?

実は、私の両親もACだと思うんですよ。

もう少し詳しく説明すると、私の両親は、どちらも親の夫婦仲があまり良くない環境で育っています。片方は手が出るような感じの、もう片方は一人に対し激しく精神的な苦痛を親戚総出で一方的に与えるような感じの環境で育ったそうで。(「それだからあなたたちは恵まれている」と何度も聞いてました。)

ちなみに、虐待というのは、子供への直接の暴力、暴言、性的虐待ももちろんですが、「児童が同居する家庭における配偶者に対する暴力」もまた同じく虐待なんですよ。これは「児童虐待の防止等に関する法律」第二条の四に定義されています。以下引用です。(わかりやすいよう、該当箇所を赤字にして下線を引いてあります)

第二条  この法律において、「児童虐待」とは、保護者(親権を行う者、未成年後見人その他の者で、児童を現に監護するものをいう。以下同じ。)がその監護する児童(十八歳に満たない者をいう。以下同じ。)について行う次に掲げる行為をいう。

 児童の身体に外傷が生じ、又は生じるおそれのある暴行を加えること。
 児童にわいせつな行為をすること又は児童をしてわいせつな行為をさせること。
 児童の心身の正常な発達を妨げるような著しい減食又は長時間の放置、保護者以外の同居人による前二号又は次号に掲げる行為と同様の行為の放置その他の保護者としての監護を著しく怠ること。
 児童に対する著しい暴言又は著しく拒絶的な対応、児童が同居する家庭における配偶者に対する暴力(配偶者(婚姻の届出をしていないが、事実上婚姻関係と同様の事情にある者を含む。)の身体に対する不法な攻撃であって生命又は身体に危害を及ぼすもの及びこれに準ずる心身に有害な影響を及ぼす言動をいうその他の児童に著しい心理的外傷を与える言動を行うこと。

つまりは、私の両親は(本人たちがそれに気付いているかどうかはわかりませんが)被虐待児であり、生きづらさを抱えていることから、ACなのではないかと思うのです。

これを踏まえて私の両親を考えると、虐待されていた家庭環境が辛かったため、二人とも自分の親たちを一部反面教師にした子育てをした結果”良かれと思って気付かないうちに”自分たちの子供(=私や私の兄弟)に過干渉になっていた、という流れなのかもしれないと推測されます。

心の底から安心できる環境など知らずに育った私の両親たちが、自分たちの子供に安心を与えるのはさぞ難しいことなのでしょう。

私も含めて言えることなのですが、自分たちが親などの養育者から受けてきた扱いに対して「どこまでが異常」で「どこからが適切」なのか、傷ついた当事者が自分だけで見分けることはとても難しいだろうと推測されます。

虐待をされて育つと、どうしても「虐待をした親が悪い」ではなく「自分のせいだ」という気持ちになってしまうようなのです。(これに関しては、私が読んだ共依存の本たちの中にもそういう記述があったので、虐待について書かれた本などを読むともっと詳しくわかると思うのですが。)

そこから推測するに、虐待された環境で育ったとして「親の育て方が適切でない」という発想は子供にはなく、「育て方は適切なのにそれで苦しくなる自分がおかしい」という考えに縛られてしまうんだろうと思うんですよ。

なので、私の両親も、自分の育ちの中で苦しかったことの一部は「おかしい」と思えて反面教師にできたとしても、全部を見分けることはできないまま、知らずのうちに自分の子供にも自分が親から受けた「適切なはずの扱い」をしてしまい、子供を苦しめ、その上で「適切に育てているはずなのに苦しくなるあなたがおかしい」という目で見てしまうのではないかと考えられるのです。考え方の秩序はそれで保たれますからね。それによって「実は自分の親がおかしかったのではないか」などと過去の辛い経験を掘り返さずにすみますし、そもそも疑うという発想すらないかもしれません。(私もココトモに来て「あなたの親はおかしい」と気付かされるまでは親の育て方を疑ったことなどなく「いい親」だと思っていました。)

 

これもまた、親を「過干渉や人格否定などにより私を傷つけた人」という主観的な立場からではなく「被虐待児として育った人」と客観的に捉えると自然なことだなあと考えることができ、ACの世代的連鎖は本当に起きるんだということを改めて実感として悟ったりとか。(しかし、それで親を許せるほど簡単な問題でもありませんが。)

そこから導き出された結論としては、子供を健康的に育てるためには「愛」という気持ちに加えて「健康的で適切な親子関係」というのがどういうものなのかという知識や経験が必要だし、それがあれば(本当に根本に愛があるのだとすれば)過干渉で子供を苦しめるなどということもなくなる(あったとしてもその状態から抜け出そうとする)はずだ、ということです。

それでも子供が憎くて意図的に傷つけてしまうようならば親自身の心のケアが必要だし、そういう親の元で子供が暮らすのはやはり苦しいことだと思います。
そして、恐らく、このようなACの世代間連鎖でACになっている人というのは私だけではないと思います。

なんとか、この連鎖を断ち切れたらいいのになあ。(そのためのヒントやとっかかりが欲しくて今保育を学んでいるというのもあると思います。)

自然な流れで傷つけられた!?

ここまで、私が過干渉により心の傷を負った育て方をされたことは、実はACの世代間連鎖によるものであり、私の親が私に過干渉になるのは心の自然な流れだったのではないかと考えられる、ということを説明して来ましたが、間違えないで欲しいのは「もし本当に心の自然な流れでACになってしまっていたとしても、私を傷つけたのは親であることは変わらないし、それにより受けた傷も変わらない」ということ。

「そうなったことは仕方なかった」と親を無理やり許し、自分の苦しみを我慢して、再び親の満たされない気持ちを満たす受け皿になどならなくていいのです。

私は最初この考察に至った時に、親がそうなってしまったことに対して可哀想だと思いました。親のために泣きました。ようやく親を許せたのかと思いました。

そのタイミングでたまたま親に会った時には「あなたたちが私を傷つけたのは仕方のないことだったと思う」みたいなことまで言いました。

 

でも、そこで私が大人になる必要なんてあったのでしょうか。

いくら親が知らずにしてしまったことでも、私は深く傷つきました。

さらに、私は、自分がACであることを理解するうちに、小さい頃からずっと夢見ていた「結婚して子供を産み育てるということ」に対してそもそもの希望を失いました。自分の子供をACにしてしまう可能性が大きいまま子育てしても幸せにはなれないと思いました。自分と同じように苦しむ人はもう居てほしくないのに、私自身には無意識に子供をACにしてしまう可能性が十分に眠っているなんて、私にとっては不幸なことです。

私をそういう風に育てた親が憎いという感情さえ抱きます。

 

それが「責任を親に押し付けてるだけの甘えだ」と捉える人、どうぞご勝手に。

しかし、私自身の生い立ちに親が深く関係していることはどうしようもない事実です。

これからの選びによってどうにでもなる?

確かにそうかもしれません。ですが、回復に至るまでには辛いプロセスが待っていることも忘れて欲しくありません。そもそも親に苦しめられていなければ、わざわざ辛い道のりを歩む事もなかったわけです。

 

私自身は、ACをポジティブに捉えながら生きても、ネガティヴに捉えながら生きても、どちらでもいいと思います。

どちらも回復するために必要なプロセスになりうるからです。

「ACに生まれたことは私の長所だ」とポジティブに捉える瞬間もあるし、「なぜこのように生まれたのか」とネガティヴに捉える瞬間もあります。どちらも大事な心の動きです。大切なのは、その瞬間が来た時に「ポジティブに感じている自分」の感情も「ネガティヴに感じている自分」の感情も、どちらも「よしよし、そう感じるのは当然だね」と受容し、受け入れ、手放せるかどうかだと思います。

どちらも受容できる自分でありたいです。

友達の言葉

と、ここまで話が脱線に脱線して、友達との電話の話がどこかに行ってしまったので話を戻そうと思いますが、、、(笑)(笑)

 

この間、ブログの最初で紹介した友達と半年ぶりぐらいに電話で話したんですよ。

その時に、「自分が重要な対人関係において共依存のループにはまっていることに気付き、今はそのループから抜け出したくてもがいている最中で、その中で色々調べていくと私の共依存のルーツは親との関係だったと気付いた。」という話をしたんですが、それを聞いた彼女の反応は「そこに自分で気付いたなんてすごい!!」でした。

そこで私は「多分、そこに気づく力は誰にでも備わっているけど、気付いていない人は「まだ気づいてないけれど気付くためのプロセスの途中」か、「プロセスを踏むためのきっかけになる出来事や助けになってくれる人・価値観に遭遇していない」(もしくは回復へのプロセスを踏むことを無意識にor意識的に自ら拒否している)だけだと思うと返し、自分はすごいと言われるほどの特別なことはしていないと言ったのですが、「もしそれが本当に誰にでも備わっている能力だったとしても、それに気付けたのはやっぱりすごいことなんだよ」と力説されました。

「もし誰にでも気付く能力があったとしても、もしキュウちゃんが気付かなかったらキュウちゃんが回復へ向かうことはなかったんだ。今はその”キュウちゃんが回復へ向かうこと”が大事なのであって、そこに大きな意味があるんだよ」

と私を説得してくれて。

私が何かを褒められて「そんなことはないと思う」と正論っぽいことを言うときに、そこに反論する人というのはなかなか居ないので、びっくりしたと同時に「この人はどんだけ私のことが好きなのだろう」と、彼女のまっすぐな気持ちによって私の心が少し動くのを感じました。

いつの間にか涙も出ていて。

うまく言えないのですが、彼女は私が「恥ずかしい」と思っている隠してしまいたいような過去の時代を一緒に過ごした友人なのに、それでも当時から「(私にとって)恥ずかしい」私を「好きだ、尊敬している」と言い続けてくれており、その気持ちが5年以上も変わらないことに感動したというか。

すごい友達に恵まれたなあと思ったわけです。

彼女の気持ちは、私の友達の愛し方とは多分違うけれど、それでも、これもまっすぐな愛だなあと。

ACという悲しい過去を背負っていても、こんな友達がいるということで心が保たれているんだろうなあと思いました。本当にありがたいです。

終わりに

私は、あまり人との関係が得意ではありません。
初対面の人が集まって話すような場所や、大勢の人の前で自分の考えを話すことというのは、高校生あたりからそれなりに(恐らく人よりも多く)場数を踏みに行くようにしていたので心の調子がいい時はできるのですが、心の調子が悪くなると途端に無口で下を向いている、挨拶すらできないようなコミュ障な私が出てきてしまいます。

それは職場でもそうだし、ココトモでもそうだし、どこに行ってもそうなのですが、そういう不完全な私を好きでいてくれる友達に感謝したいのと、自分の最近の考えを表すことで誰かの心を癒すヒントになれたらと思ってブログにしてみました。

これからもコツコツ自分のACに向き合っていきたいと思います。

それでは、また次回のブログでお会いしましょう!

 

キュウ

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こんにちは!キュウと申します。 私は幼い頃から自分に価値を見いだせず、いつも死にたいと思ってきました。親から見たらいい子ちゃん、心はいつもひとりぼっち。それに加えて、お腹が弱くてトイレがやたら長い子供でした。 後になっ...

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全4件のコメント

  1. キュウ 12/28 08:00

    匿名さん、ありがとうございます!頑張りまーす!

  2. キュウ 12/28 07:58

    なつきさん、ありがとうございます!
    まさかブログの読者だったとは、、、コメント嬉しいです(*´-`)

    なつきさんも普段から自己分析をなさるのですね。お心遣い嬉しいです。「心を拾う」って素敵な表現だなあ。
    私は自己分析が好きなので、苦しくてもやっちゃう、みたいなところもありますが(笑)(笑)これからも楽しんでいきたいと思います(*´-`)

    またお会いしたときにはよろしくお願いします♪♪

  3. 匿名 12/26 12:51

    あまり無理なさらず頑張っていってください。きゅうさん。

  4. なつき 12/26 04:34

    ココトモハウスの「なつき」です。
    実は何回かキュウさんの過去のブログは読んだことがありました。
    初めてコメントしてみますね。

    共依存のルーツがわかってよかったと思います。
    「気づく瞬間」や「ピンとくる」瞬間って日常にたくさん転がってて、それをとらえたときって嬉しいですよね。
    何か問題となっていることの原因探しってエネルギーを必要とするし大変だと思います。
    俺もよく散歩をしながら心を探ったりします。
    心を拾いに行くことがすべてではないにしても、それで気持ちが軽くなったらいいですよね。
    話の焦点がずれてたらごめんなさい!
    無理せずに頑張ってください!

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