日本人の甘える文化

おっくんさんの“「日本」という特殊性の自覚”というブログ記事を読み

いろいろ考えさせられることがあったので

私も自分が思う日本という文化を書いてみようと思います

まずはそれを考える機会をくださったおっくんさんに感謝申し上げます

以下、私の個人的な推論と意見です

「自己主張する文化」「察する文化」

日本において“察する”ということはコミュニケーションとして重要視される技術です

自分の意見を堂々と主張し合うことはあまりよろしいとされません

一方、西洋世界ではお互いに意見を主張して相互に理解することを基本とします

上記の事柄が正しいと仮定して話をすすめます

なぜ日本と西洋世界ではコミュニケーションのとりかたが違うのか

それはそれぞれが歩いてきた歴史が違うからだろうと思います

西洋人の人権思想

西洋人が自己主張をする文化を有するのは根底に人権思想があるからじゃないかと私は思います

国王が支配する時代から市民が王権を打倒して自分たちで政治を始める時代

その過程で市民が得た権利それが人権です

人権を基盤にものを考えるなら、個人ひとりひとりの人権、つまりは利益を基本と考えるので

個人が自分の人権を主張することがコミュニケーションの基本になってくるのではないでしょうか

当然、人権という一般化した概念を有することによって同じ権利を相手と分かち合うこともできるのだと思います

何が人権なのかということに差異はあれ、お互いに人権を主張して守っていこうとすることによって世の中をうまく回していこう

そういう発想なんじゃないかなと私は思っています

日本人と人権思想

日本においては王の支配を市民が打倒するということはそもそも起こりませんでした

日本における王とはすなわち、江戸時代でいうならば諸藩の大名のことになるのかなと思います

確かに幕府が存在して各藩の統括をしてたのですが

実際に各地を治めていたのは大名であり、その土地の民衆は皆その大名の領民だったわけなので

そして明治維新がおこったのですが

明治維新も結局は幕府が明治新政府にとって代わっただけで大名が領地を治めている状態は変わらなかったのです

その後、廃藩置県によって大名の支配は終わるのですが、市民が王権を打倒するようなことは起こりませんでした

その後、明治政府を追い出された士族によって日本の民主化が始まっていくわけです

もしかすると日本の一般庶民が本格的に人権を意識するようになるのは戦後になってからなのかもしれません

日本人と察する文化と災害

人権思想を持たない日本人

その日本人のコミュニケーションの文化として“察する”ことが発達した

その理由として私は災害大国日本ということがあるんじゃないかなと思っています

日本はその立地から活火山が多く、地震も多い、また台風の通過ルートであり、時折大寒波もやってくるような超自然災害大国です

その自然の脅威と我々の先人は常に戦って生き残ってきたわけです

やはり自然との対峙に必要なことはチームワークです

チームで連携を取って災害対策を行うことによって我々は生き残ってきた

それには言語的なコミュニケーションだけでは充分ではなかったのではないかと私は思います

集団として多くの災害に対処する中で“察する”文化というものが受け継がれていったのではないかと私は考えています

「甘える」文化

日本人の精神分析の第一人者の一人である土居健郎先生は西洋人と日本人を比べて日本人は「甘え」を意識する点で特異であると主張されています

日本人はそれを意識しているというだけで西洋人にも「甘え」は存在するのですが

日本人は甘えということを意識するので逆に「甘えるな」という言葉を使ったりします

また心理学者のユングは日本の社会を「母性的な社会」であるという評価をしています

日本人を表すジョークとして以下のものがあります

西洋人の母親は子どもが転んでも見守るが、日本人の母親は子どもが転べばすぐに助けに言って慰める

そういう例にも日本人の「甘え」の文化があるのではないかなと私は思っています

子どもは転んだときに母親に助けてもらうことを期待して泣く

母親は子どもが助けてほしいと思っていると察し、助けに行って慰める

この一連の流れが母性的であり、母親に助けてもらおうと受動的に助けを求めることが「甘え」であり

その「甘え」を察した母親が子どもを助けに行く

これが日本の甘える文化であり、察する文化を表しているんじゃないかなと私は思います

甘える文化は受動的

上の母親の例でみたように、甘えることは受動的です

西洋の自己主張する文化は自分から主張するわけなので能動的です

しかしながら我々日本人は受動的に人に愛してもらおうとする、つまり甘えるということを意識します

意識できるからこそ、甘える場面、甘えない場面を自分で切り替えることができるのかもしれません

それでもあえて我々は甘えるということをします

なぜ人に甘えようとするのか

それは自分の甘えを相手に察してもらうことで信頼関係をつくろうとしているのかもしれません

自分の甘えを察してくれる相手には安心感をおぼえるのではないでしょうか

甘えること 察すること それが引き起こす問題

世の中は自分の甘えを許容して察してくれる人ばかりではない

そればかりか自分の甘えを察してくれる人に巡り会えないこともある

それは人によって価値観が違うからなのですが

それでも人に甘えようとする本能は人間にはあったりするんじゃないかなと私は思っています

西洋世界のように積極的な自己主張を小さいときから徹底される社会でないので

自己主張をして自分の意見を言うこともできず、下手に人に甘えてしまう人もいるんじゃないかなと私は思います

下手に人に甘えようとすると、相手が自分の甘えを察してくれないわけなので

相手に対して怒りの感情が湧いたり、不満が募ったりするのですが

自分の口から話したわけでもないので相手からすればなぜ怒り出したのかわからない

そんなトラブルが生じることもしばしばあるんじゃないかなと私は思ってます

海外文化の影響

日本文化の特徴としてもうひとつあげられること

それは海外文化への関心の高さだと思います

日本にある文化、そのほとんどが海外からの輸入品です

仏教や儒学の思想、漢字という文字、建築の技術、稲作、金属加工……

古代だけでもこれだけの文化を輸入しているわけで

特に地理的にシルクロードの終着点として様々な文化が日本に流入し、それが排斥されることなく受け入れられた

ここに日本の特徴をみてもいいんじゃないかなと私は思います

その後も中国経由で様々な文化を吸収し、15世紀には直接、西洋人からも文化を吸収しはじめます

江戸時代には鎖国も経験しますが、鎖国中も海外の文化は常に日本に流入しつづけました

そして明治時代に西洋文化を本格的に取り込むわけです

しかし、急速な西洋の文化の流入は実は日本の伝統的な価値観を日本人が忘れてしまうという結果を生み出してしまったんじゃないかなと私は思います

日本が戦争に負けてから、いわゆる戦後と呼ばれる時代になってこの傾向はさらに加速しているような気がします

日本人の価値観、西洋人の価値観

戦後日本は、人権思想を基に日本国憲法をつくります

そして人権思想に基づいた国づくりが始まります

先で述べた通り、日本には人権思想にたどりつく歴史がありません

その一方で、日本人は日本の伝統的な価値観をはっきり意識できているわけではありません

その中で始まった人権思想に基づいた教育

そして、加速する海外からの文化の流入

その中で日本人はどう生きてきたか

その結果が現代なんじゃないかなと思います

日本人の価値観、西洋人の価値観

そのどちらに優劣があるわけではないと私は思います

けれど、西洋的な価値観の教育が何十年もなされる中で

未だに日本人的な価値観が日本人に根付いているということ

そのアンバランスが日本人に与えている影響

その影響がどんなふうに現れているのか私には想像できないのですが

そのアンバランスが日本の社会の問題の一つの原因となっているんじゃないかなと私は思っています

日本人の伝統的な価値観について再考する意味

西洋的価値観と日本人の伝統的な価値観

このアンバランスをどう解決するか

それは日本の伝統的な価値観について我々が考えることによってなされるんじゃないかなと私は思います

西洋的価値観を否定する

それは間違っていると私は思います

価値観に優劣はないのでどちらか一方を否定する意味はないと私は思います

伝統的な価値観はその時代、その時代に即した考え方なので現代に適応できるものでもないと思います

けれど、我々の中にはその価値観の片鱗が埋め込まれているのも事実だと思います

その価値観の片鱗を認めることができること

それが自分たちを肯定することにつながって、自分たちの生きていく自信のひとつになるんじゃないかなと私は思います

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コメント一覧

全4件
  1. schedule2018.03.12

    ぬい

    恭子さん
    ブログを読んでいただいて感想までいただけて嬉しいです
    “甘える”
    日本人文化論の一つのワードとしてでてくる言葉だったりします
    もちろん外国人も甘えることはあるのですが
    日本人ほど意識しないらしいです
    甘えられて嬉しいことがあったり鬱陶しいと感じたり
    そういうところを意識することで
    確かに自分が相手とどういう関係だと感じてるのか
    分かっちゃうのかもしれませんね

  2. schedule2018.03.12

    ぬい

    おっくんさん
    好評いただきありがとうございます
    日本には人権思想の基本理念が元々備わっていた
    そのあたりが日本の歴史の中でどう培われてきたのか考えていくのも思い白いかもですね
    「察する」ことを相手に押し付ける
    一見矛盾してるみたいですけれど
    自分の価値観を相手に受け身で理解してもらおうとする
    つまりはただ単に相手に甘えてるだけなんじゃないかなと私は思ってます

  3. schedule2018.03.04

    恭子

    うーん、面白いブログを読ませていただきました。「察する」は技術。。そういう観点もあったか!と目からウロコでした。そして「甘える」文化。。常々、人と関わっていて感じるとこで、ある程度、時間をかけて信頼関係ができてくると、「それくらい甘えてよ~」と言われることに多々遭遇します。甘える・られることで、私たちは信頼関係にあるんだよってことを確認したいのかな?なんて思うところではありますが、正直なところ、嬉しい人とうっとおしい人がいる(笑)その瞬間の感情を通して、逆に自分の本心。。その人に対しての信頼度が明白に見えちゃうバロメータにもなりえるものなのかもしれないですね。「甘える」って行為は。

  4. schedule2018.03.01

    おっくん

    たくさん示唆をいただけました。
    ありがとうございます。
    日本には、人権思想は必要なかったという話を聞いたことがあります。
    人権思想の基本理念を日本人は元々持っているからだそうで、なるほど!と思いました。
    アメリカに平等が叫ばれるのは、差別思想が根強く存在する国だからなんですよね。
    ヨーロッパで人権思想が生まれたのも、宗教、歴史、民族…様々な「違い」に溢れていたからでしょう。
    僕は、世界は矛盾で出来ていると思っています。
    相手のことを考えるはずの「察する」という価値観を、他人に押し付け強要する矛盾。
    不思議です。

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