この世界とは…という問いから考える生死観

少し小難しい内容になりますが、僕が自身の命題にしている「分かり合う難しさ」について考えるための重要な着眼点だと思っているので、このブログに明示したいと思います。

読んでくださった方に、何かしらの示唆をもたらせられたら幸いです。

生きるとは、学ぶこと

「地獄」というものが存在しているとすれば、僕はこの世、この世界が地獄だと思っています。

「地獄」とは、「悪行を為した者の霊魂が死後に送られ罰を受けるとされる世界」と定義されており、宗教においても宗派を問わず、共通した概念のようです。
社会というコミュニティで共存していくために、倫理観という共通のルールや善悪という共通の価値観の形成を目的に考え出されたものだと思います。

これを逆説的に捉えると、人が持つ倫理観や善悪という価値観を前提にしているものと言えます。
「罪」があっての「罰」であり、「罪」とは何かしらのルールを破ることで発生する概念ですからね。

「地獄」という概念をもう少し掘り下げてみます。

地獄が「罪を償うために罰を受け、悔い改める場所である」ならば、そこには「学ぶ」という要素が含まれていると思います。
学び、来世でそれを活かすということです。
学びが必要なければ、罪を犯したものは消去した方が合理的ですからね。

「善悪」という人ならではの前提を外し、「罪→経験」「罰→学び」と置き換えると、地獄とは「経験から学び、それを活かす世界」と捉えることができます。
それは、今僕たちがいる世界です。

今僕たちが生きている世界そのものが「地獄」とは言えないでしょうか。

生を受けるとは個体になること、個体になることで学ぶことができる

なぜ、僕たちはこの世界で、個体として存在しているのでしょうか。

個体でいることで、「壁」ができます。
「壁」があることで、見えなくなり、分かり合う必要が出てきます。
分かり合うためには、理解する必要があります。

何かを認識するためには、比較することが最も合理的です。
比較するには、比べ合うものが必要です。
個体でいることで「壁」が生まれ、壁があることで相互の存在を認識することができるので、比較することができます。

比較により認識することで、理解することができます。
理解することで、学ぶことができるのです。

僕たちが個体でいることで、理解することができます。
理解するために個体でいるとも言えます。

個体という「生」を得ることは、理解するためにあり、理解するということは、そこから学ぶことができるということです。
学ぶために、「生」があるのかもしれません。

死とは「無」であり、無とは全てが融合したもの

数学が世界にもたらした最大の功績は、「0」の概念を生み出したことと言われています。
「無」という概念を、論理的に捉えやすくなったためです。

「無」とは、何でしょう。
「0」として捉えると、何もないものになります。
何もないとは、空間すらない状態です。

「完全」という概念があります。
「完全」とは、全てを内在するということです。
全てということは、「無」も含まれてます。
「無」があるということは、全てが「0」になるということです。

「完全=無」ということです。
矛盾していますよね。
しかし、一過性的に見ずに、「無=完全」とすれば、矛盾が解消され共存できます。

無とは、何もない状態
完全とは、全てを内在した状態
無=完全
無とは、全てを内在した状態
と考えることができます。

何とも屁理屈ですが、「死」というものを考える時、この考え方をベースにすることで、「死」と派生する「生」を捉えやすくなりました。

死後は、全てが融合し「個体」がない世界

「死」とは、その人の個体が「無」になることです。
※存在としての「死」は、意味が違って複雑になるために含みません

個体が無くなることで、「壁」がなくなります。
壁という認識するものがなくなるので、一つに融合すると言えます。

「無とは、全てを内在した状態」と照らし合わせると、死により一つに融合することは、意味的には限りなく同義になり、繋がると思います。

死後の世界は、全てが一つになった世界だと思うのです。
僕の生死観です。

学ぶために「生」がある、学ぶとは「好奇心」

全てが融合した「死」の世界。
そこは、調和があるものの静寂した世界。
時の流れも、変化もない世界。

そこには、目標も成長もありません。
欲望もなければ、感情すらないでしょう。
悲しみや苦しみもありません。
ワクワクや喜びもありませんが。

宇宙は、何もない空間にビックバンという爆発が起きたことで生まれたと言われています。
しかし、なぜビックバンが起きたのか、ビックバンを起こしたものは何かは、まだ解明されていません。

僕は、ビックバンと「生」の誕生とダブって見えます。
「生」も、ビックバンのように何かの”きっかけ”で生まれたと考えています。

それは、「好奇心」だと思っています。
知りたいという純粋な欲求です。

「好奇心」には、善悪はありません。
人間の価値観を超えた、純粋かつ根源的なものです。

好奇心とは、知ることです。
知るためには、前段の話に繋がりますが、個体になる必要があります。
個体になるための壁を作るのです。
個体になるということは、「生」を得ること。

好奇心のために、「生」を得るのです。

生きていく中で、経験を通してたくさんのことを学びます。
学ぶとは、好奇心を満たす行為です。

好奇心を満たすために、「生」を得るのだと思います。
※三大欲求とは、「生」を物理的に続けるための仕組みですね

では、なぜ「好奇心」がきっかけなのでしょう。
僕には、その答えがまだ見えていません。

しかし、魂を磨くとかみたいな上と下があるという人間的な価値観よりは、好奇心の方がより根源的なものだと考えています。

最後に

この世界が地獄とするならば、極楽浄土な天国は、死後の世界かもしれません。

僕の生死観では、死後の世界は静寂な無の世界です。
全てが融合しているので、分かり合え、争いもありません。
「個」がないから当然ですが(笑)
争いがない平穏な世界は、極楽な世界と言えないでしょうか。

幸せだけの世界、苦しみだけの世界なんてあるのでしょうか。
幸せや苦しみなんて、人が勝手に捉えた価値観でしかありません。

そこにあるものを、どう捉えるかという主観的なもの。
見方の一側面でしかありません。

同じものを幸せと捉えるか、苦しみと捉えるかだけであり、対象は同じものなので存在します。
幸せと苦しみは、同居しているのですね。
だから、幸せしかない世界や苦しみしかない世界なんてないのです。

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コメント一覧

全2件
  1. schedule2018.03.05

    おっくん

    ぬいさん、コメントありがとうございます。
    着眼点の違いですね。
    面白いです。
    ただ、疑問なのは、「解脱」という考え方に人間が持つ善悪の価値観をベースにしている気がします。
    僕は、仏教は宗教ではなく哲学の一つと捉えているので、考えて自体には是非はありません。
    どんな構造でその考えが形成されたかに興味があります。

  2. schedule2018.03.05

    ぬい

    0という概念を発見したインド人
    インド仏教における地獄とは実は
    苦しみを感じることがない世界だったりします
    生きる苦しみを感じないことは解脱から最も遠い世界とされ
    悟りを開けない世界だとされています
    生きる苦しみ
    この世の全ての生き物が背負うもの
    その苦しみの本質は“罰”ではなく
    因果によって生じる関係性によるものである
    そして全ての関係性から解脱できたとき
    永遠の輪廻から開放されて苦しみから救済される
    インドの世界観もまた独特だなって思います

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