出来るならば、自分自身を1番の拠り所にしたい。

親友の言うことが、正しいと思ってました。

親友がいるからこそ、私の人生は輝いていると思ってました。

仕事があるからこそ、私の人生は美しいと思ってました。

生きがいややりがい、夢や誇れる能力やスキルがあれば、素晴らしいと思ってました。

でもね、ある時ふと思ったんだけど。

居場所やスキルや人、何か常に『拠り所』を常に求めるのは、自分にとって良いことなのか?って。

自分に自信が昔からなかったから、外部に常に『拠り所』を求めていた。

それは、居場所だったり『神様』的な存在だったり。

自分の安心や、安全や、正しさを保証してくれるもの。

だって、そういうのあれば、安心じゃない?って、思ってた。

自分を信じるなんて恐いもん。誰かに否定されたら嫌だし。

例えば、ある程度多数の信頼を寄せられている人であったり物であったり、外部の存在ならば、否定されるリスクが低かったりするし、安心よね。

多分、そんな風に思ってた。

自信がないから、何もない自分なんて、恐かった。

考えたくなかった。

でも、「自由が大好きで、窮屈が大嫌いだ」と自分の性質を知った時に、そういう存在を求めることが自分にとっては、とても「不自由」だと気付いた。

居場所を決めれば離れられない。

人や物を決めれば、それを離せない。ないと、恐いもん。

だから、いつも何かをギュっと握りしめる。

固執する。

なくなったらどーするの?

なくても生きていけるの?

そんな風に思うものは、持ちたくて持ってるんじゃなくて、恐いから持ってるだけ。

本当は、持っていたい訳じゃない。

やりたくない仕事を、お金を理由に頑張るみたいに。

逃げてるだけだと思う。

多分私は、何もない自分でも良いと自分で認めてしまって、どこへでも何も持たなくても大丈夫だし、何処へだって行けると常に思ってるほうが楽。

そうしてると、なぜか別にどこへも行かなかったりもするんだろうけど苦笑

持っているよりも、持っていないほうが、実は安心するんだ、ということと、去年ニートの経験で何となく分かった。

人にもよるだろうし、自信への価値観にも、考え方にもよるだろうけど、私は「何もない自分」を意識して、受け容れて、「何にもないけど、大丈夫」だと思って生きるほうが、何百倍も楽で、怖くない。

何もなければ、失くすものもないから。

なんて言いながら、今持ってるもの簡単に捨てられますか?とか、大事な人失っても悲しくない?なんて聞かれれば、多分今言ってることは半分嘘になるだろうけど苦笑

きっと、その瞬間や、しばらくは悲しい。

持っていなかった時なんて、覚えてないし、その時から私も変わっていってるだろう。

でも、それでも、「大丈夫」。

持っていても持っていなくても、自分自身は味方でいること。

それは、一生変わらないし、一生そのまま孤独でいようとも、人は人を求めてしまうし、多分一生孤独は、私にはとりあえず絶対無理だ苦笑

傷つけるのも人、殺すのも人、裏切るのも何もかもぜーんぶ、人。

癒すのも人、生き返らせてくれるのも人、信頼してくれるのも信頼出来るのも、全部人。

真逆だけど、これは真理だと思ってる。

何にもない自分でも良いけど、何もないからこそ、誰か結局一緒になってくれる。

それが例え一時的でも、長くても、どこかで裏切ったとしても、信頼してくれていても。

自分という存在は変わりはないし、また望んでも望まなくても、『人』はやってくる。

だから、自由で良い。何にもなくて良い。

どれだけ人を拒絶しても、人はやってくるものだと思うし、自分は大丈夫だから、恐がらずに進めば良いし、人から貰えるものは疑わずに受け取って良いし、嫌なものは100人中99人がブーイングしたとしても、1人位は後でこっそり「自分はね、良いと思うよ☆」なんて、耳打ちしてくれるかもしれない。

人が考えてることなんて、分からないけど、だからこそ、悪いこと考えてるとか思っても、実際自分にとって嬉しいことを思っててくれている場合だってある。

だから、人の考えてることが分からないってのは、案外悪いことばかりではないのかもしれない。

敵に囲まれている!という時にも、その中に味方がいら可能性は十分にある。

何が言いたいか分からなくなったけど(とゆーか、別にいつものことかもしれないけど…)

要は、1人で自由でいることは、大丈夫だし、悪いことじゃない。

多分、それを言いたいんだと思います苦笑

寝なきゃ…(リアルに…)

おやすみなさいm(_ _)m

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コメント一覧

全4件
  1. schedule2018.03.08

    ohana

    ぬいさん★
    深いコメントありがとうございます(^^)
    究極の生き方かもしれませんが、何かに依存したり、頼ったりすることで自分を保ち、それが苦しいと感じた経験が何度もある私は、多分この意識は忘れないほうがいいんだろうな、と思いました。
    自分が拠り所の場合、確かにある意味でその『核』に囚われてしまう事もあるのかもしれませんね。
    でも、その『核』は、ある意味でまた、他者からの影響を受けて育って行くものであると思うのです。
    自分にとって邪魔になる時に、それがいつの間にか、『他人の核』にすり替わっていないようにしたいなぁなんて、コメント読んでいて思ってしまいました。
    難しいですね。。。

  2. schedule2018.03.08

    ぬい

    自分を拠り所にして生きる
    究極といえば究極の生き方かなと思います
    生きることは他から影響を受けることであって
    そして他に影響を与えることなのかなと思います
    もちろん死してなお現世に大きな影響を与え続けることもあるんですが
    そういう関係性の中で生きていくと
    混沌として自分というものが見えなくなって
    他の影響で自分が作られているような感覚におちいってしまうのかなと思います
    他の影響で自分が作られている
    それは事実として存在するんだと思います
    けれど自分も自分に影響を与える存在で他にも影響を与えているわけです
    そしてその自分がらでる影響の根本は自分の核みたいなものなのかなと思います
    その自分の核こそがもしかしたら自分の拠り所になりうるもので
    自分を一番困らせる厄介なやつなのかな
    って私は思います

  3. schedule2018.03.06

    ohana

    おっくんさん★
    ご無沙汰しています(^^)
    お元気でしょうか?

    そうですね…なんか私、本当は多分、頭で考えるの好きじゃないんですよ苦笑
    その通りだと思ってます。

    論理的に考えるのって、多分楽なんだと思います。
    恐いから、「論理」に逃げてるんだと、自分を省みても人を見ても、何となく最近気づくようになりました。
    想像力とか目に見えないものよりも、目に見える「論理」ってある種の安心感がありますもんね。

    便利さが生んだデメリットなのかもしれません。
    そう考えると、ちょっと悲しいことでもあるかもしれませんね。。。

  4. schedule2018.03.05

    おっくん

    ご無沙汰しています。
    是々非々ではないんだと思います。
    人間って、論理的なものを求めがちです。
    その方が分かりやすいですから。
    でも、世の中矛盾だらけで、整合性が取れないものばかり。
    最近思うんですが、人が論理的かつシンプルに物事を考えようとするのは、考えることに対して面倒になったのかな…と思います。
    だからか、想像力とか自分とは違うものを理解する力を失いつつある人が増えている気がします。
    豊かで便利になった弊害かもしれませんね。

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