傷つかない、裏切られない、そんな方法。

凄い魔法みたいなこと言ってるタイトルかもしれない。

でも、そんな方法では、実はないんです笑

嘘を言いたい訳ではなくて…。

傷ついたとか、裏切られたとか…

自分で思う事はこれまでも今も沢山あって、周りからもよく話を聞くことが多くて…

最近、傷ついた記憶を、数ヶ月経って人に話すことが増えて。

それを踏まえながら、『傷つく』とか『裏切られる』とかについて、深く深く考えてみて。

凄い嫌な状況に追い込まれても、その人を責めない、なんか凄い人だなぁと思う人に接して。

んで、その人を通じて、その他の自分や自分と同じように『裏切られた気分』を味わった人を見て。

思ったんです。

傷つきも裏切られも、決してしない考え方か、生き方があると。

それは、『裏切られても傷つけられても良い』と思える覚悟をすること。

人は人と分かり合えないし、自己中だし、自分のことを傷つけるし、裏切りもする。

でも、そんな事をした本人が、本当にそうしようとすることは実際ほとんどなくて、悪意があることなどほとんどなくて、悔しいくらいすぐにそんなことは忘れていて。

ひたすら、ただ独り、自分の記憶にだけその件は刻まれている。

恨みにしか残らなかったりする。

でも、唯一救いなのは、裏切られたも傷つけられたも、『主観』であって、そう思うことは自分の自由なのだ。

その事実をどう捉えるのかも自由であって、傷つけられたと思うことも、向こうが勝手にやったことで自分が1ミリも傷つけられてないと思うことも、アイツ最低だったと知ることが出来て良かったと捉えることも自由。

今回の件で、お別れする決断が出来て良かったと思うことも自由。

と、ここまでは『嫌だったけれど、自分の糧になった』と捉える方法だったけれど。

もっと言うと、そんな事を思う必要がないくらいの境地に行くと…

相手がどうしようと、どんな良いこと、悪いことを自分にしてこようとも、どんな影響を及ぼそうとも、

『人は優しい』と思えるようになる。

傷ついた、と思うのは、傷つきたくないからだ。

裏切られたと思うことは、裏切られたくないからだ。

傷つきたくなければ、自分を傷つけない人を探す。

裏切られたくない時は、裏切らない人を探す。

それは、傷つける部分、裏切る部分、それを相手の中に探すことと同じだ。

そう生きて行くと、必ず相手の中に『そんなところ』を見つけることに繋がっていく。

私は今年、『独りになってみよう』と決心した。

そんな決断に、ぶっちゃけワクワクした。

だって、独りなろうとすれば、独りじゃない証拠がどんどん出てくると分かっていたから。

独りだと思えば思うほど、とても些細な出会いや、お店の接客でさえも、『誰かと接した、誰かとご縁があった』と思える。だって、独りだと『人と話す』ことはそもそも出来ないのだから。

それと同じ、と説明して通じるかどうかは分からないけれど、『〜されたくない』『〜したくない』など、『自分がいかに損したくないか?』みたいな目線で物事を見ると、必ずそのネガティブな『マッチする』ものに出会う。

人って、悪いもの見つけるのは、誰だって得意だから。

損することは、目に付きやすい。

だから、敢えてその損をして『当たり前』みたいな精神でいると、逆に『損しないことが珍しい』と思えるから、良い方に目が行きやすい。

そして、不快な思いしても大丈夫だと思えるから、生きやすくなる(気がする)。

傷つけられることない、裏切られることもない、そんな生き方は、『不快な気持ちになる覚悟』だ。

その覚悟をすると、それはやがて『人を信じる覚悟』になっていく。

嫌な気持ちにもなるけど、やっぱり人は優しい。信じられる存在だと、思える。

それは、自分が人を受け容れる覚悟が出来た時に、思えること。

そうすると、嫌な出来事があっても、その人とまた連絡を取り合ったり、恨みや憎しみを持たなくて済む。

これが、自然に出来る人もいれば、傷ついた裏切られた経験を重ねて、最後の方にやっと思える人もいるし、誰といても傷ついたり裏切られることを恐れる人もいる。

私だって、傷つきたくないし、裏切られたくない。

でも、そう思うことは日常茶飯事だ。(とゆーか、過去を思い出して、何度も傷つけられた気分、裏切られた気分になる、と言った方が正しいけれど…)

出来るならそんな思いをしたくない。ポジディブな捉え方がいつも出来るといいけど、多分本当に大切なのは、ポジティブな捉え方がどう出来るか?ではなく、『それでも私は、人を信じたい』と最後に思えるかどうかだ。

それでも人は優しい。

嫌な気分になっても、その相手とその後仲良く出来なくても、最後にこの感覚に持っていければ、幸せなんじゃないかと思う。

この話した覚悟は、自分で自分自身を守る覚悟だ。

私は私で守れるから、傷つけられることも裏切られることもない。だから、誰と接しても大丈夫だよ。

そんな、自分への誓いのような気がする。

万人を信じる必要はなくて、本当に嫌だと思う人間に無理に思う必要はなく、その人と付き合って行くこともしなくて良い。

でも、嫌な人だとしても『まぁいんじゃない?それぞれの人生だし。』とサラッと思いを手放して、自分が大切にしたい人は、『信じたい』とか『守りたい』と思えたら、

それは幸せなことなんじゃないかなぁ?と思います。

この覚悟、偉そうに書いておきながら、私も気づいたのはつい最近で、全然出来てなくて、、、

ムカつくこと、覚えてること、恨んでること、たーーーーーっくさんあります!!!!

同じことずーっと言ってんなぁとか、本人にぶつけてやりたいとか思います。

別に、ぶつかる時が来たら言っても良いと思ってるし、言わずに離れても良いと思ってる。

どちらでも良い。

でもそんな嫌な経験を死ぬほどしても、『それでも人は優しい』と思いたいなぁと思います。

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コメント一覧

全4件
  1. schedule2018.07.04

    ohana

    phoenixさん★
    初めまして、コメントありがとうございます(名前…かっちょいいですね…!!笑)

    コメントせずにはいられない気持ちを素直に出してもらえて嬉しい限りです!!!

    『受け取り方は虹のように変化自在』なんだか、この言葉とても好きです!笑
    そうなんですよね、過去は変えられるとか、未来は変えられるとか色々言うけど、あれは全部、自分の捉え方や考え方を変えることにより起こることなんだと思います。

    自分の作ったシステムに助けられながらも、それが足を引っ張って自分自身を傷つけている…という流れもあるのかと思うと、何だか切ないと言うか悲しいですね…。やっぱり寛容さや柔軟性を意識するのが1番なのかなぁとも思います。

    人との出会いや別れって、悪いことではなくて『変化のフェーズ』らしいです。
    私も数年前と、去年今年辺りからもう信じてた人とか仲良かった人との別れみたいなものがれもうバンバン来て、あまりの多さに、慣れつつあります。。。
    自分が急激に変化すると、急激に起こります。でもそれって、成長なんだと思うんです。だからきっと、罪悪感を感じる必要はありません。私、惰性で続けてる関係が結構あって、それの清算だったような気が、今はしています。
    流れや波長が合う人といるのは、自然です。波長が合わないから違和感を感じる。
    波長が合う人は、居心地が良いだけではなくて、『人と関わることの素晴らしさ』も教えてくれるような気がしています。
    出来るならば、そうした気持ちを、死ぬまで味わっていきたいもんですよね苦笑

    また、ブログには書きませんでしたが、この後に思ったことがあります。それは、『自分が不幸だと他人にイラッとしやすい』ということ。傷ついた、裏切られた、という感情、もしこの事が起こった際、自分の状況が過去最高だったら…例えばプロポーズされた直後で彼と凄く仲よくて、妊娠していることも分かった…そんな時に同じことが起こったら、同じようなことを思うだろうか?
    なんて、考えてみました。

    多分、流せると思うんです。嫌なことの大半を。それが出来ないのは、自分が何かしら日常で我慢したり苦しかったり、違う件で怒りを溜め込んでいたり…自分が不幸な時に、傷ついたとか裏切られたって、より反応する気がします。

    幸せも、捉え方だと私は思っていて…。

    今の自分が描く最高の幸せな状態に実は今なっているということを昨日から実は意識して、なったつもりで生きていたら、今日見ている現実がちょっと変わりました。

    私こそ長文になってしまい、すみません(ノ_<)
    コメント、ありがとうございました。また書いた時に是非読んでみてもらえたら嬉しいです♡

  2. schedule2018.07.04

    phoenix

    オハナさん、初めまして。最近ココトモに流れ着いたphoenixと申します。
    他のブログもちらっと読ませていただいたのですが、共感できることが大きくて、コメントせずにはいられない!という気持ちになってしまいました(笑)
    ちょっとした価値観の違い。捉え方の違い。想いのすれ違い。人と関わりつづける限り、そんな違いから、傷ついたり傷つけたり、裏切ったり裏切られたりする経験は、避けて通れないものなんだなぁと実感しています。その「経験」自体は避けられなくても、(こういう負の感情に限らず)世の中のことは何であれ、受け取り方で虹のように変化自在に変るというのは、本当なんですよね。ただ、私たち人間って、生まれてからこのかた接してきたすべての事柄の影響によって構築されたシステムみたいなものに、ある意味助けられ、ある意味縛られて生きるしかないから、どうしても、「何されるとこう反応する」みたいな部分があるんだと思います。だからなおのこと難しいんだと思います。
    私も、せっかくご縁のあった友人を、そんな些細な違いから失いました。価値観の違いで、互いに「え?!」と思ったり「傷ついた!」と感じたりしても、見方を変えて歩み寄っていったことは、何度かありましたが、積もり積もって、歩み寄ろうとすることに疲れてしまったみたいです。縁を切った罪悪感は今でも重いけれど、きっと遅かれ早かれそうするしかなかったろうし、せめて、ご縁のあったことを感謝して、胸にしまって生きて行くのが自分にできることなのかなって考えています。
    誰でも「心の流れ」みたいなものがあると思います。ラジオの波数みたいに、いろんなデジベルの流れがあって、ちょっとずつ違う。共鳴する流れを持つ人に出逢うと、心地よくて、調和したきれいな流れが生まれて・・・。「好きな人と一緒にいる」ってある意味そういうことでもあるのかなって思いました。私もそれは「我儘でも甘えでもない」自然で、そして素敵なことだと思います(*^^*)
    突然長々と失礼しました;

  3. schedule2018.07.03

    ohana

    ぬいさん★
    コメントありがとう。
    2月にあった一件があり、その他色々なことがあって、『傷つけられた』ことを思い出しながら、このブログを書いたんです。

    なんか、その事を思い出しながら考えると、『傷ついた』その一言は、私の感情を過剰反応させるものだったんだなぁと思いました。
    相手は、私がその言葉でこんなに怒るなんて思わなかったし、例え本音を言ってもきっと、キョトンとするだろうと思います。

    その経験から1つ、私が見出したのは『理解されなかった、傷つけられた苦しみ』を、自分はちゃんと受け容れて慰めてあげることと、そんな人と一緒にいる必要はないことです。

    相手に悪意がなくても傷ついたことは事実で、その事実は自分の主観で、でもそれを相手に言っても良いけど、言う事が正解ではなくて。

    こうしたことは初めてではなくて、本人に伝えたことも、飲み込んだことも、今まで様々な対処をして来たけれど、やった事がなかった方法は、『自分を責めずに、無理にそんなことを言う人達と一緒にいないこと』でした。

    かなり時間がかかって思えたことだったけれど、「好きな人と一緒にいる」って甘えでもワガママでもなんでもなくて実はとても大切。
    周りの人間環境から人は想像以上に影響を受けると思っています。

    私には、厳しいことを言う人を無理に飲み込もうとして自責に走るクセが昔からあって…。

    今回は、やったことのない方法を採用してみました。

    相手に悪気がなくても、人と人がいくら分かり合えなくても、その人と付き合いを止めて『そんな心地いい言葉が欲しかった』と思える人と付き合う事を選ぶ事が、もしかしたら『人は優しい』とまた思えて、傷つけた人さえ許す方法なのかもしれませんね。

    長くなってしまった(ノ_<)
    なんだかんだ言ったって、現実問題難しいですね汗)

  4. schedule2018.07.03

    ぬい

    自分が傷ついたとか
    自分が裏切られたとか
    そういうのは確かに自分の主観的な体験なんだと思います
    相手に悪意がある場合もあるのでしょうが
    全くないことも多いんだと思います
    それはきっと人が人の気持ちの全てを理解できない故のできごとなのかもしれません
    ほんとうはその相手にその気持ちを汲んでほしいのですけれどなかなかそうもいかず
    直接言葉で伝えれば相手を責め立てることになってしまう
    なかなか気持ちを整理できなかったりするのかなと思います
    うまい具合に相手に伝えられる方法があればいいのになと思いつつ
    難しいなと考えている毎日です

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