両親の死から考える(その2)

こんにちは、やっさんです。

前回のブログの続きです。

僕の母が交通事故に遭う2日前に、僕は母の実家に電話をかけて、母と話をしました。
そのときの母は風邪を引いていて、声が変でした。
当時は、月に1回程度でしたが、僕は電話で母と話すようにしていました。
母から電話がかかってくることは、ほぼありませんでした。

1996年に母と別居して以来、僕は2度母に会いに行きました。
父と弟は別居した母には会わず、電話で話をすることもほとんどありませんでした。

僕は父や弟よりも母に抱いている憎しみが強いと思ってきました。
どうして僕だけ母と電話で話をしようとしたり、会おうとしたりしていたのか?
今もその理由は、わかりません。
別居した母と交流したことが良かったのかどうかも、わかりません。

亡くなった母が火葬場で焼かれて骨だけになったのを見て、僕だけ泣いていませんでした。
母が亡くなって3~4ヶ月経って、ようやく1人で部屋で母のことを思い出して泣きました。
母が亡くなった直後は、悲しみよりもホッとした気持ちが強かったので、泣けなかったのかもしれません。

僕にとって生前の母は、ものすごく重たい存在でした。
別居する前はずっと専業主婦で、別居して実家に戻っても本当に短い期間しか働いていませんでした。
母が実家に戻ってからは、母の親族が母の面倒を見ていました。
でも、いつかは間接的であっても長男である僕が、母の面倒を見ないといけない。
母が亡くなるまで、そのような重苦しい思いを抱えながら僕は生きてきました。

僕が物心つく前から母はアルコール依存性でした。
元々母は、お酒が飲めませんでした。
コップに3分の1くらいのビールやチューハイを飲むと、それまで穏やかで物静かな母が豹変しました。
ほぼ毎日母は夕方までに一人で隠れてお酒を飲んで、訳のわからない言動を続けて家庭を荒らしていました。
そんな母を見て、父は母を殴って抑えようとしていました。
僕もそんな母を殴ったり蹴ったりしたことがありました。
暴力を振るうことがいけないことが頭ではわかっていても、当時の僕も父も母に暴力を振るうしかなかった。
僕は豹変した母をずっと殺したかった。
翌朝になると、母は昨夜に自分が豹変したことを全く覚えていませんでした。

母は2度アルコール依存性を治す病院に入院しました。
でも、退院すると、またお酒を買って飲んでしまいました。
お酒を簡単に手に入れられる日本で、アルコール依存性は治すことは本当に難しいです。

母は静かで内向的な人でした。
他人に気軽に愚痴を吐き出したり、趣味などでストレスを発散できるような人ではありませんでした。
そうなると、ますます辛くなって、何かに依存しないといけなくなる。
母はお酒に依存するしかなかったのでしょう。
でも、お酒を飲んで豹変した母の行為は、決して許されるものではありません。
そもそも、お酒を飲んで息子の小学校の授業参観に出てしまう時点で、親として人として駄目でしょう。

母の交通事故は、母の飲酒が原因でした。
外で一人でお酒を飲んだ後、記憶がない状態で赤信号を渡って車にひかれました。
自業自得としか言えない。
母を車でひいてしまった人に対して、僕は今も申し訳ない気持ちでいっぱいです。

僕は今、豹変した母との記憶をほとんど覚えていません。
ただし、自分の潜在的な部分では今でも覚えているのでしょう。
豹変した母の影響をかなり受けていると思うこともある。
それでも、表面的でもいいから嫌なことは忘れて、人や何かのせいにしないようにした方が、生きやすくなると思っています。

今は母を許せるようになってきています。
母以外の女性が自分の母だったら良かったということは、想像できない。
でも、僕の母に対する憎しみは一生消えないだろうし、消えなくていいと思う。

一方で、母に対して申し訳ないという気持ちもある。
息子として長男として、至らなかったところがたくさんある。

いまだに母に対する思いは複雑ですが、ようやく僕はあきらめた方がいいことはあきらめられるようになってきました。
他人と過去は変えられない。
そのように思えるようになってきてから、母を受けいられるようになって、肩の力を抜いて生きられるようになってきました。

次回は父に関するブログを書こうと思います。

それでは。

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