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自分というものについて。同じような考え方の方いますか。

閲覧数951 コメント数6 person退会したユーザー edit2016.10.05

幸せとか不幸せなんてものはなくて、幸せと思う自分、不幸せと思う自分があるだけ。
快楽とか苦痛なんてものはなくて、楽しいと思う自分、辛いと思う自分があるだけ。
デカルトが「我思う。故に我あり。」って言ってるように、唯一それを思う自分だけがあって、どう思うかは自分次第。だから思い通りになるのは自分の思い方だけだと思ってた。それが答えだと思ってた。
そんなことを考えて生きてきましたが、ついに気づいてしまいました。デカルトも私も1番大事なところを間違っていた。
自分なんてものは本当はどこにもなかった。私なんてどこにもいなかった。
世界も自分も本当は全部作り話でしかなかった。恐怖も悩みも全部作り物の茶番劇に振り回されていただけだった。
同じように気づいた方、同じような考え方の方はいますか?
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コメント一覧

  • refresh約8年前
    退会したユーザー
    orangedaysさん
    コメントありがとうございます^^
    長文で恐縮ですがよろしくお願いします。

    TARAと名乗っている私個人も日々の問題や事件に悲しくなったりします。ですが私個人がどんなに問題や悩みを解消しようと努めても、むしろ問題について意識すればするほど問題は私から消えてくれないことはわかっています。なぜなら個人の思考は個人で完結しているからで、その思考、その問題も、そして思考している私個人そのものも実在しない観念でしかないからです。ですが、それではここで何も述べることができなくなってしまうので、ここでは私個人としての考え(これも概念)を書きますね。観念で作られる世界は全てにおいて二面性を持ちます。この二面性こそ人間が囚われているエゴの産物です。得と損、幸と不幸、自と他、善と悪、楽と苦、過去と未来、生と死等です。私はエゴの正体は言葉(名前)だと考えています。言葉も当然観念であり実在しません。言葉は全てを分離させます。例えば「野球」という言葉。バットやボール、グローブ、そしてルールという言葉(観念)の組み合わせで「野球」が生まれますが、野球自体が実在しているわけではありません。そこにあるのはバットやグローブです。そして「バット」も実在しません。バットという定義(観念)を与えているだけでただの木や金属の棒です。そして「棒」も実在しません。人間が棒という見方(観念)をしているだけで虫や動物からすればただの「それ」です。同じく「自分」も観念の組み合わせにより存在するように見えているだけで自分というものは実在しません。言葉(名前)によって意味づけされたものは突き詰めていくと全てはただの「それ」に収束します。だから本当は「自分」も「他人」もなくて全てが全体(「それ」)としてあるだけです。これに気付くと「世界」とはなにか、「問題」とはなにかもわかります。
    自分以外の社会問題についてですが、自分も社会も問題もその解決策も全ては概念であり、それらが個で完結している以上、自分がそれを問題だと思ってる以上は、それは問題であり続けます。全てが「それ」に収束するということは、問題も、大犯罪者も、災害も、悩みも全て「それ」なんですよね。あえて全ては自分だったと言ってもいいです。ですがもちろん私個人として、特定の個人だけが得をしたり、痛みを感じたり、日々の犯罪などに憤りを感じます。人が抱くエゴが不足観や損得の考えを生み、少子化、格差等の問題を招き、自らの首を絞めています。遺伝子操作など生命の営みをも壊し始めた人間はいつか破滅するのではないかと私個人は考えています。それでも気づいてしまった以上は、前述したような視点で見ると、最終的には問題なんて本当はなかったと感じます。命というのは本来個で完結するものではなく、個を完全に超えたものです。人類を破滅させるような悪事がどこかで企まれていたとしても、そのような方向へ流れる命という川に私が流されているに過ぎません。足の着かない水の中ではもがけばもがくほど苦しくなります。ですが水と一体になれば苦しみも問題も消え去ります。
    子どもを作るということについてです。
    言葉(名前)すなわちエゴを持たない虫や魚にとっての命は、その個体に完結するものではなく、全体としての命であるはずです。ですが、エゴ(言葉)を持ったが故に人間は性欲をコントロールすることができます。子どもを作ることが善か悪か、損か得かといった具合です。ここまでエゴを悪いもののように書いてしまいましたが、もちろんエゴにも二面性あって、素晴らしい側面があります。エゴがあるから「親」があり、「我が子」があり、「家族」があり、「絆」があるのですから。
    枕元にプレゼントを置くのがサンタ本人でないことは、わざわざ教えなくても子どもはいずれ気づくように、人間の意識も遅かれ早かれいずれ目覚めます(気づきます)。言葉(名前)を持たない赤ん坊はそのように世界を見てるからです。現代の裕福な国でうつ病が増えているのも、生きる意味を考える時代になりつつあるからだと私個人は考えています。私自身もうつ病になって死(生)と向き合ったからこそ、命とは何か、自分とは何かという探求を始めたので。目覚めの瞬間が来るまで、子どもの(目覚めてない)頃にしか味わえない思い出(人間物語)こそ、人間に与えられた最高のプレゼントです。私事ですが、来年の4月に「父」となり、「我が子」に会う予定です。
  • refresh約8年前
    退会したユーザー
    こんばんは!
    TARAさん返信ありがとうございます!(*^^*)

    すごく話が変わってしまうのですが。笑
    同じような想いに至り、似た価値観を持っているTARAさんに2点程質問させて頂きTARAさんなりの意見をお聞かせ願いたいのですがよろしいでしょうか?

    お暇な時にでも気が向いた時にでも返信頂けたら嬉しいです。
    早速の質問なんですが
    1つ目は現在の社会問題、最近ではTPP交渉のことで話が進められています。
    このことなんですが、私はこの裏事情を知って悲しくなりました。他の国の問題でもブラックな部分もありますが、TARAさんはこういう自分の問題以外のことってどうしてますか?
    私は自分自身自分で言うのもなんですが正義感が変に強すぎて、特に医療分野に関しては許せなくなってしまいます。自分の仕事に対しても悲しくなってしまいます。
    見て見ぬフリをしたり、考え方を変えればいいのかなとも思うのですが、実情があれだけに国に対して一部の有益者に対して強い憤りを感じてしまいます。
    また鬱状態の方や自殺者数も増えてしまうのだろうなと考えると悲しくなります。
    自分が悲しくなっても意味ないですし、かといって以前のように正義感を貫き通して悪と戦い続けるのも疲れたのでそれもする気もありません。
    TARAさんはこのような問題とどう上手く付き合っていますでしょうか?

    あと一つなんですが、子供のことなんですが。
    自分が一度こういう想いになったり学ぶものがあると以前は普通に子供が欲しいなとか思ったりしてたのですが、今はいろんな面を考えて子供を作っても良いのかな?と思ったりする面がすごくあって悩んでいます。

    一般的には親のエゴになってしまうのは仕方がありませんよね。だからこそしっかりとした教育やたくさんの愛を与えてあげないといけない。美しい世界を見せてあげて自立への道筋を立てないといけないと思っています。

    でも本質的には子供を作るというのはエゴであって、作るのも作らないのも自由だし、作ったのなら責任を果たしなさいよということだと思っています。

    TARAさんは子供を作ることに対してどのような考えをお持ちなのか教えて頂きたいです。(エゴ以外の意見などがありましたら是非お願い致します。)
    この2点だけはずっと自分の中で悩んでいて答えがなくても正解なんだろうけど、なんか誰かの意見を参考にしたいなと思いまして。^^;
    是非TARAさんのご意見でご教授願いたいです。

    長文に乱文失礼致しました。
    お暇な時にでもよろしくお願い致します。(*^^*)
  • refresh約8年前
    退会したユーザー
    orangedaysさん
    綺麗な言葉でコメント頂きありがとうございます。
    一人一人の美しい絵画。その通りですね。2つとして同じ絵はない。明るい色の絵もいいし、暗い色が入っていてもいい。今持ってる鉛筆の色が何色でも楽しく絵を描きたい。周りを気にしてモノクロの単調な絵を嫌々描いているのは勿体無いですね。世界があらゆる二面性で構成されているように、色にはきちんと補色=互いの色を強調し合う反対の色が用意されています。星の光が闇の中でしか見えないように、暗い色があるから明るい色が映えるんですねきっと。
    おっしゃる通り本当は何にも無い。世界は「絵」、フィクションなんですよね^^;私が生きているのではないく、全体としての命が生きているだけで。「自分」から自由になって「それ」しかないと気づくと、実は敵なんていなかったことに気づきます。悩みなんてなかったと気づきます。だから悩んでいる人には悩みを通して、悩みなんて本当は無かったって気づけるといいねって思いでココトモを眺め応援する日々です。^^
  • refresh約8年前
    退会したユーザー
    TARAさんこんにちは!
    私も思います。面白いですよね。(*^^*)

    本当は無なんですよね。だけど、そのシチュエーションによって自分に世界に自分五感を通して色付けされているだけなんですよね。

    自分はないようだけど、自分があると錯覚をしてしまう。この錯覚の部分は幼少期に形作られる自分であって、本来はそれだけが自分ではない。本当は無だし、何もない。いつもまっさらな画用紙や水みたいなものなんですよね。
    だからこそ、なんでもできるし、可能性に満ち溢れているのですよね。
    本当に面白いけど、いちいち物事を決めるときにこれは前に培った経験からできている自分の価値観だよな?とか思ったりもします。なんか不思議な気分です。
    だからこの世には犯罪以外正解も間違いもなく、本当に自由なんだなと感じます。

    だからこそある程度の道標は大事なのかなとも思ったり、みな迷うのでしょうね。
    自分で自分の人生を作って生きていくのはなんだか面白いこともあり、難しい面もあり、本当に不思議だし、生命の神秘を感じます。人間は水分で殆ど満たされて作られていますが、存在も水のようなものだと思っています。
    行くとこ行くとこ水のように溶け込み、周りの環境によって影響を受けていく。固まったり、溶けたり、蒸発したり。人は面白いものですね。(*^^*)

    何もないところから始まり、何もないところに終わる。
    その中でどこに滞り人生に色を与えていくか。
    最終的に一人一人美しい絵画を描いてこの世を去っていく。
    なんとも美しく儚い、だから面白いし有り難い命なのかもしれませんね。(*^^*)
  • refresh約8年前
    退会したユーザー
    asakiさん
    コメントありがとうございます。
    時にはこの名前、時にはこの体、時にはこの意識を自分だと思って、イライラしたりドキドキしたりニコニコしたり色々な茶番劇に巻き込まれてきましたが、自分から解放されて、全体的な位置からこれらをみると、どんなことも奥ゆかしく、面白く思えますね。
  • refresh約8年前
    退会したユーザー
    私も似たようなことを考えたことはあります。
    でも、今は、作り物の茶番劇に付き合うのも悪くないと思っていますよ
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