心は移ろい、時は流れる

こんにちは、キュウです。

私は最近、というか、今までもこれからもずっと、なのかもしれないけれど、考えていることがあります。

 

私はうぬぼれやすい弱さを持っているということです。

 

「これはこうだったから自分はこう思った」

という、目の前の事実にとらわれて、それを基準に物事を考えてしまう傾向があるんです。

「自分はいいことをした」

という自己満足を得たいお節介おばさんだった時期もありますし、今でも、”何かを誰かのためにしたい”と願う時には”自分の良心を満足させたい”という欲求が少なからずあるということを感じます。

(それがいいのか悪いのか、という話ではなく、仕方ないことなのか直せることなのか、という話でもなく、そういう傾向があるという単に事実のみを伝えたいです。)

自分が体験したことがない話はどこか物語のように感じてしまうし、自分とは別の人間を愛したいと願っても、「愛」という自分のおせっかいの押し付けだったこともあります。

そうして、それはどうやっても消えることのない、なのにどうしようもなく何度もしてしまう失敗だ、と感じているわけです。

それゆえに、「愛」なんて、じつはうぬぼれなんじゃないかと、最近は思うのです。(ただの私の仮説だけど。)

 

私は絶えず変化していきます。いろんな人と触れ合い、様々な本と出会い、いろいろなものを見て、懸命に仕事をしていると、絶えず変わらざるを得ません。

毎日が脱皮です。

常にそれまでの自分の価値観を疑い、新しく触れたものを吟味し、自分の心に取り入れやすい納得のいく形に消化して、新しいものを生み出していく。そうして生み出されたものに従おうとすると、また新しく出会ったものに感化されて、その形は変化していく。同じ状態の時など、そう長くは続きません。

同じように、愛の形ですら、どんどん変化していくわけです。人を愛したいという願いが私の心の奥に燃え続けていたとしても、その形はどんどん変化していくため、「変わった」と受け取られても仕方がないときもあると思います。

 

さらには、ある一時に思っていたことで、人にアドバイスをしたとしても、それは別のものに触れた後には意見が変わっているかもしれない。

ある一時に感じていたことを、ブログやSNSで発信したとしても、それはある友達と話した後には感じ方が変わっているかもしれない。

それなのに、人にアドバイスをしたり、愛したり、考えを発信することの意味って一体なんなのでしょう。

私の価値観に触れたところで、果たしていくつの価値観が動くのでしょうか。

そもそも、私は世界どころか、日本も、東京も、住んでいる場所の全てすらも知らないのに、何を偉そうに自分の意見を人に述べることができるのでしょうか。そんなことができるほど価値のある生き方をしてきたわけではないのに。

それでも、私がアドバイスしたり発信したり、価値観を発信することをやめないのは、「自分がそうしたいからだ」としか表現できません。

 

「価値観」なんて、変わらないのがかっこいいと思っていた時期もありましたけど、そんなの不可能だと最近は思います。

絶えず疑い、吟味し、消化して、自分のものとして新しく生み出していく。

そうすることでしか保てない、大切な「何か」があるのではないでしょうか。

言動の矛盾など、時が移ろい絶えず変化していく中では必然的に起こりうること。大切なのは「矛盾したこと」ではなく、「どういう過程で意見が変わるに至ったのか」なのではないかと、最近では思います。

そうして、今書いているこの意見ですら、半年後には変わっているかもしれない不確かなものなのです。(しかし、一方で、「今、この時、この瞬間にわたしがこのブログに書いたように感じている」ということは、間違いない、確かな事実でもあるわけです。)

 

 

それでも、世界の全てを知らなくても、日本どころか東京も、住んでいる場所の全てすらも知ることができなかったとしても、いずれは意見が変化してしまう可能性があるとしても、それでも言いたいことがあるのは、私にとっては、どうしようもなく苦しいことです。

でも、同時に、それを記録に残すことは大切なことだと感じています。

 

ときは移ろい、時代は流れ、人の価値観も、物事の良し悪しですら、変わっていく。

そんな、確かなものなど何もない世界で、一番確かだと思っているのは、

自分が、今、このとき、この瞬間に感じている気持ちを、自分が、今、このとき、この瞬間に感じたのだ、という事実。

これだけは、私が間違いなく確かだと思えることなのです。

そして、私は、そのときそのときの”確かな事実”を記録に残したいという衝動にかられます。きっと、私は”確かな事実”を追い求めるのが好きなのでしょう。でも、追い求めれば追い求めるほどに、「そんなものなどない」という答えばかりに行き着くのです。そうして、その中で唯一出会った”確かな事実”に、私は心惹かれるのです。

自分がどういう経緯で今この考えをするに至ったのか。自分のことだけは、記録を通して過去の自分から教えてもらうことができます。「そこに書かれていることは過去の自分が書きたかったことだ」ということだけは、疑いようがない。日記は、”過去の自分がそのとき、その瞬間に感じたこの気持ちを書きたかったのだ”という”確かな事実”であふれています。それには、自分の心にとって、誰にも有無を言わせないだけの真実味があるように思えるのです。

それは、今を生きるヒントになったり、励ましになったり、ときには恥でいっぱいになったりしながら、今の自分を生きる糧になり得るものです。

 

かっこ悪い自分も、うぬぼれた自分も、悩み抜いている姿も、今思えば恥ずかしいような内容も、赤裸々に語る日記帳が、私は好きで、少し怖いです。

過去に感じていた私の丸裸な姿が、ありありと映し出されているように感じるから。

そう、自分の心の丸裸を直視するのが怖いのです。

そのときの未熟さを思っては逃げ出したくなったり、自らの至らなさを痛感したりすることがとてつもなく怖くなるときがあるのです。

同時に、それは自らの心の成熟度を図る物差しにもなってくれているような気がしています。過去の未熟さがありありと滲み出ている日記を読んで、そこから逃げ出したくなるようでは、まだその過去を消化できていないということ。逆に、過去の未熟さがありありと滲み出ている日記を読んでもそれを恥と感じずに受け入れられるようになっていたら、その未熟さを超える成熟な何かを身につけられたのだろうなという感覚になるからです。

きっと私には、そうして常に自分と向き合うことで、築き上げてきた何かがあるのだと思います。

 

 

先ほど、「愛」なんて、実はうぬぼれなんじゃないかと思う。と書きました。

それが良いことなのか、悪いことなのか、正しいのか、間違いなのかは、私には今は判断できません。判断するには材料が足りなさすぎます。経験も、出会った価値観も、少なすぎると思うのです。(そうして、それが”私にとって”良いことなのか、悪いことなのか、正しいのか、間違いなのかは、他の誰にも判断させるつもりはありません。)

この疑問がまだ小さかった頃、ある友人に問いかけたことがあります。彼女は、「エゴから生まれる愛もあるのだ」と言っていました。「それなら、エゴ万歳!だよ!」と。

でも、私にはその友人の答えはしっくりきませんでした。その他の友人の答えでも、まだ、しっくりくるものには出会ったことがなく、今でも、心の片隅でこの疑問はくすぶり続けています。

愛とは、エゴとは、一体どういう形で消化すれば自分は納得できるのだろうか。それらは本当にそれは別のものなのか。それとも、相反するように見えてとても似通ったものなのか。それとも、他の何かなのか。

自分が立てた仮説のように、自分にとっての愛がもし本当にうぬぼれの現れであるとしたなら、人を愛する意味などあるのだろうか。

いくら考えても、すぐに答えが出るわけでもなく、しかし考えるのをやめたいともおもわず、常にアンテナを一本立てながら生活しているような状況です。

そんな私が今、ただ一つ言えるのは、私自身は、何度も何度も、愛にうぬぼれながら、そのうぬぼれに気づいては落ち込みながら、失敗を繰り返してこの人生を歩んできた、ということ。

そうして、きっと、これからもそうしていくのだろうということです。

 

みなさんの中には、「愛」と聞いて「うさんくさい」とか「きれいごとだ」とかって思う方もいると思います。

私はその言葉にたくさん振り回されてきました。その「うさんくさい」とか「きれいごとだ」とかいう言葉が、私のプライドを傷つけていたから。

でも、私が悩み抜いた「愛」が、うさんくさく見えても、きれいごとに聞こえても、それが私の未熟の現れだったとしても、それはもう、どうでも良いことです。

そうではなく、自分が本当に納得する形の愛を見つけ、実践することの方が大事だからです。

 

最近の私は、愛とは「これは本当の愛であって、これは本当の愛ではない」なんて、そんなくくりの中だけでは語り尽くせるものではないのではないかという思いが、ことあるごとに膨れ上がっていくのを感じます。

 

そして、私は、そんな「愛」が好きです。

人の心に触れたように感じる時の、特別な感覚が好きです。

人を思いやる時に感じる心の痛みも。

どんなに好きでも、好きだからこそ厳しいことを言わねばならない時に感じる身を引き裂かれるような思いも、子供を叱った後に来るざわざわとした胸の不安も。

恋人を想う時の、幸せと不安が入り混じるような恋の気持ちも。

友人の優しさに触れた時の暖かさも。そんな時間も、雰囲気も。

私の思いやりに触れたと感じた時の、相手の笑顔や反応も。

人に甘える自分の姿も、甘えさせてくれる相手のことも。自分に甘える人の姿も、甘えてもらえる自分の姿も。

まだまだ未熟なりに愛を考え、思い悩みながら、実行し続ける自分の心も。また、そうした他人の姿も。

 

愛をテーマに生きる、ということが、必ずしも「マザーテレサのようになる」ことでもなければ、「母性溢れるお母さんを目指す」ということでもありません。

ただ、自分にとってのしっくりくる愛の形が何なのか、ただそれだけを、試行錯誤を繰り返しながら、そんなカッコ悪い姿をさらけ出しながら、追い求めているだけなのです。

ただ、自分の心が追い求めるものを追求している。

そのことが今は、心地よくすら感じます。

 

いいのかな、こんなブログ書いて。最近、変化していく私が紡ぎ出すブログの数々が、本当にココトモに合っている内容なのかも、今はよくわからなくなっています。

ココトモでは書けない話もブログにしたくて、アメブロで個人のアカウントも作りました。宣伝になっちゃうからここには載せないけど。

 

ココトモも、アメブロも、ゆるーーく更新していきます^^

 

では、また次回のブログでお会いしましょう!!

キュウ

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コメント一覧

全2件
  1. schedule2016.11.13

    キュウ

    豆しばさん、コメントありがとうございます^^
    返信が遅れてすみません。気まぐれにしか返信しないもので・・・汗

    でも、遅れても、コメントをくれて嬉しかったということを伝えたいと思いました。
    本当にありがとうございました!!

  2. schedule2016.08.23

    豆しば

    深いないようのblogご馳走さまです

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