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人を見下す性格を治したいんです!

閲覧数1983 コメント数10 person退会したユーザー edit2016.05.05


私は様々な人を性格の良さだけで見てしまい、自分がその人の性格が良くないと思うところが少しでもあると軽蔑とまではいきませんが人間として未熟な者と見下してしまうのです。こんなふうに人に偏見を持つ自分が未熟であることもわかってはいるのですが、未熟な人のようにはなりたくないと思うことがすごく多いです。
私が思う性格の良い人とは勇気があり、まっすぐな心を持ち善意で行動していて公平で筋のとおった振るまいができ、思いやりがある優しい人のことです。

自分で調べて、価値観の違いに寛容になるだとか器を大きくもつことが大切だという意見があったのですが、私には価値観の違いを受け入れる幅は大きくできても、社会一般的な悪ではないが根本的に相容れない価値観にさらされた時に我慢ができません。たとえ器を大きくしてもその器を越えることは起きうるし、その出来事を許せないと思うが故にそれをした人に嫌悪感を覚え、軽蔑してしまうということもあると思います。

偏見を持つ自分が嫌でそれが原因で人生が楽しくありません。
どうしたら自分の中の偏見をなくし幸せになれるのでしょうか?
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コメント一覧

  • refresh約8年前
    退会したユーザー
    こんばんは。皆様恐れ入ります。
    実は私は、表現力が乏しく、言葉使いが下手くそです。どうもすいません。
    私にできる事があれば、頑張らせて頂きたいです。
  • refresh約8年前
    退会したユーザー
    teketekeさん、こんばんは。こちらこそ、お返事くださってありがとうございました。


     

    私も、こちらでteketekeさんとishiiさんのお話しを拝見したことで、とても勉強になりました。今の自分と、もう一度向き合ってみようという気持ちを持つことができましたので、私の方こそ、心から感謝致します。ありがとうございました。


     

    自分の考え方の癖というのは、私自身もそうなのですが、なかなか変えることは難しいことかと思います。その都度、自分の心と向き合うことが辛くなってしまうことも多々あるかと思いますが、そんな時は、どうぞこちらの掲示板で、心の内をお話しくださいね。


     

    心は常に揺れ動くもの、コントロールすることはとても大変ですが、一緒に頑張っていきましょうね。
  • refresh約8年前
    退会したユーザー
    お二人とも親身になって相談に乗ってくださり本当にありがとうございます。
    お二人からいただいた金言をこころに大切に刻み付けてこれからを過ごしてみようと思います。
    もし、また自分の生き方や心のあり方に迷いが生じましたらアドバイスをいただきに参ります。
    本当にありがとうございました。
  • refresh約8年前
    退会したユーザー
    teketekeさん、こんにちは。こちらこそ、私の話に耳を傾けてくださり感謝いたします。ありがとうございました。


     

    >頭では自分に自信をもち、他の考え方に「まぁ、いいか!」と思えるようになることの大切さは理解しているのですが、心がいまいち追い付かないというのが現状です。


     

    teketekeさんも、もしかしたらご存じかもしれませんが自分の中で禁止していることを「許してあげる」ことが「自己肯定を上げる」良い方法かと思います。この方法は、よくインターネットや自己啓示本などで取り上げられている方法ですね。


     

    teketekeさん、あなたはもしかして何よりも「人に嫌われること」を恐れていませんか?そして自分の中で「自分は、相手に嫌われるような言動をしてはいけない。」と、自分の中にいくつかの「厳しい掟」を作ってしまっていませんか?それが「自己肯定力」を下げてしまう「一番の原因」なのです。一番の原因である自分で作った厳しい掟「自分が相手に嫌われる言動をしても良い」と「許してあげる」ことが、自己肯定力を引き上げる方法になるのですね。


     

    この「自分が相手に嫌われる言動をしても良い」と許してあげる理由は、相手が自分に好意を持ってくれるのも、嫌悪感を抱くのも「自分次第」ではなく「相手次第」だからです。どんなに「相手の為に」と思って取った言動も、時には「相手を傷付けてしまう」こともあるからです。きっと、その経験を何度か繰り返してしまったことで、teketekeさんの中にある「厳しい掟」がドンドン増えてしまい、自分に対しても相手に対しても「厳しくなりすぎている」ことから「何をしても楽しめない」と考えるようになってしまったのかなと感じました。


     

    自分自身の言動や思考に自信を無くし、正しいのか間違っているのかを相手の判断に委ねてしまえば、全て「相手次第」となるので、自分自身の心が揺れ動くのも当然です。そして揺れ動く度に「相手を気持ち良くせねばならない」といった考えに陥り、自分に対しての「厳しい掟」がドンドン増え、掟に縛られがんじがらめにされてしまうのです。これでは身動きも取れないので、何をするにも息苦しさを感じるだけで、何も楽しめませんよね。

     

    「自分が作った掟」気付く方法は、人のお話を聞いている中で「怒りや苛立ちを感じたもの」が「自分が作った掟」になります。たとえば、ishiiさんへのコメントのお言葉をお借りすると「他人に感謝の心を持って接することができないのはその人の心が貧しいからだ」と考えられるのも、teketekeさんの中で「他人には、感謝する心を持って接さなければならない」という「掟」があるのかもしれませんね。


     

    この「感謝する心」ですが、どのような時も「相手に感謝」をしなければならないのでしょうか。その人によっては、相手の善意が「ありがた迷惑」な時もありますよね。teketekeさんも「とてもありがたいけど・・・でも、本当はあまり嬉しくないんだよなぁ・・・。」という気持ちになったことはありませんか?私もそう感じたことはありますが、こういった時は「感謝する気持ち」を持つことが、なかなか難しいと思うところが私の正直な感想です。


     

    ですので「他人に感謝する心は大切だけれども、全ての物事に対して、必ず感謝しなければいけないということはない」と自分の中で少しずつ「掟」を消していけば良いのですね。「必ずしも、人に感謝の心を持つ必要はない」と思えるようなれば、たとえ自分が相手に「感謝されていない」または「相手に感謝する素振りが見えない」と思っても「まぁ、必ずしも感謝されなければいけないという必要も、相手が必ずしも感謝しなくてはいけないという必要もないから、いいか!」と考えられるようになってくるのですね。


     

    自分の「厳しい掟」を少しずつ解放することができれば、相手の言動に対しても「許す」心が生まれてきます。そうすることで「自分の言動や思考は相手と違っててもいいんだ。」と思えるようになり、自己肯定力も上がりますし、相手に対して「理解を深める」こともできるようになるのですね。


     

    最初から、この方法がすんなりできる人は殆どいません。(笑)なので、最初は自分が相手を見下したり否定的な気持ちを持っても構わないので、まずは相手の話に耳を傾けてみてください。そこで「お前のそういうところがダメなんだよ!」という怒りや苛立ちを感じたら「あ!これか!これが自分の中にある掟か!」をいうことに気付いて下さい。この「気付く」ということが、とても大切なことです。


     

    気付くことができれば、少しずつですが、その場その場に合った対応ができるようになります。「あ、自分は今、相手に対してすごく怒ってるな。ここに居たらイライラして相手に当たりそうだから、少し離れよう」とか「この話を聞いてたら、激しく自分の意見をぶつけてしまいそうだから、話が終わったら違う話に切り替えるか」など、自分の価値観に拘り過ぎることもなく、相手の価値観も傷付けることなく、その場の雰囲気や相手との時間を楽しめることができるようになるのですね。


     

    それでも「たとえ器を大きくしてもその器を越えることは起きうるし、その出来事を許せないと思うが故にそれをした人に嫌悪感を覚え、軽蔑してしまうということもある」と我慢の限界を感じたときは、自分と価値観の違う人を、無理に自分の価値観に合わせる必要はありません。そういった相手とは、無理をせずに距離を取ればいいのです。そして、相手に対してイライラする時間を自分の趣味など、好きなことに使ってください。その方は気持ちも楽ですし、ストレスが溜まる心配もありません。「価値観の相違は誰にでもある」こと認めたうえで、これからは、どうぞご自身の人生を悠々と楽しんでくださいね。
  • refresh約8年前
    退会したユーザー
    まだ、レシピがありますが、ひらめいたのが
    もうひとつ書きます。
    人間の無力さを知ることです。人間は完璧に造られては
    いません。
    自然の前では、無抵抗で、病気や寿命の前では無抵抗です。
    自分の置かれた環境も思い道理には、なりません。
    そして、自分のお世話させて頂く人や部下を持ち、責任も
    持ちます。
    もうすでに有るのですとすいません。
    自分が完璧であっても、部下がそそすると、廻りに謝らな
    いといけなくなります。
    稲は沢山果がつけばつくほど、頭が下がってきます。
    ちなみに私も高慢のところは、沢山あります。
  • refresh約8年前
    退会したユーザー
    こんばんは。ありがとうございます。
    ご期待に添えるかわかりませんが、私の思う事書かせて頂きます。
    人間はどこまでいっても、ネガティブなココロ使いはとれません。
    無くすことは、無理ですが抑えることは、できます。
    そこまで自分のココロに向き合う方は、信仰者みたいにですね。
    私が同じ事を思ったとするならば、相手をもっと深いところまで
    追求します。
    自分と関わり合いのある人ならば、その人が私と会ってよかった
    と想っていただけるように、その人の事をかんがえます。
    そして、この先その人がそのままで困らないといけない事で
    あれば、直接柔らかくとうまわしに言うか、態度でみせて
    いきます。
    それだけ相手を見ているという事は、気になる存在だと思います。
    私は、そのために何をさせてもらお。近くにその人の御先祖
    さんが身も守っているならば、その人に喜んで頂くためどうしよう。
    まず、自分から同じ様に想われている態度は改めてよ。と、
    考えます。
    もし、自分で考えすぎたなら、その気持ちを明日に回そと、
    気持ちを切り替えます。

    高慢の気持ちを強く持ち続けると、やがては、取り返しの
    つかない病気になったり、家族では、バラバラになります。
    そのココロ使いは、やがては癖になり、自分のココロを
    見失い、廻りの人達に迷惑をかけるはめになります。
    取り留めない話ですいません。
  • refresh約8年前
    退会したユーザー
    Ishiiさん
    コメントありがとうございます。
    低姿勢と感謝の心が大切ということで私自身もその考え方には共感します。できることならそのようにしたいですし、できる範囲ではそのようにしているつもりでもいます。しかし、思いがけず人を見下してしまうことに悩んでおります。
    例えば心ない言葉をかけられたら「この人は子供で精神的に未熟だからダメなんだ」とか「他の人間の立場になるだけの創造力が欠如しているからそういうことをするのだ」とか「他人に感謝の心を持って接することができないのはその人の心が貧しいからだ」などと思ってしまうのです。このように精神的な成熟度合いなどに優劣をつけて考えてしまい、それによって劣っているのだから劣っている人間に問題があるのだと考えてしまいがちになってしまいます。是非ともその部分についても素敵なコメントをいただけたらと思います。
  • refresh約8年前
    退会したユーザー
    風草さん
    貴重なコメントありがとうございます。
    自分でも「自己肯定の低さ」というところに心当たりがありました。そこで質問なのですが、自己肯定感を高めるには何をしたらよいのでしょうか?
    頭では自分に自信をもち、他の考え方に「まぁ、いいか!」と思えるようになることの大切さは理解しているのですが、心がいまいち追い付かないというのが現状です。
    是非お願いします。
  • refresh約8年前
    退会したユーザー
    はじめまして。
    私の思うには、昔から人のふり見て我がふり治せ。と、あります。
    相手のひにおちる点は自分にもある事やしてきた事です。

    人間には、自分の顔を見るために鏡という道具を使わないと見る事
    ができません。
    自分の魂は、沢山生まれ変わりをしてきて、今日があります。
    私達は、魂を見る事も感じる事もできない人がほとんどです。
    ですが、この世で出会う人は、自分と同じものをもっている人です。
    この世は映し鏡です。人様の事を見て、自分の事を悟ります。
    相手の好きではない性格のおかげで、自分の事がわかります。
    親不孝の人をみて、自分の魂にその悪い種を蒔いた因縁を悟ります。
    ですので、人様のおかげで、で自分の事を知るわけですので、感謝
    しかありませんよね。
    このように悟り方一つで、人生が変わってきます。
    ココロがけ一つで、行動が変わり、言葉が変わり、運命が変わり、人生が変わります。
    人間は、だいたい感謝できるほうには、うけとりません。

    そして、水に例えて話をすると、水は高い所から低いところへ流れます。
    水たまりと同じで、人も低い人には、人も、仕事も、お金も、着るものや、食べ物も
    集まってきます。
    会社の平社員が、俺は仕事をしてあげてると威張っていたら、辞めてもらっても
    いいよとなりますが、私は会社や社長や皆様のおかげで、働かせて頂いてます。
    と、いうような方は、やはり重宝されます。
    どのような人にも使ってもらえる様に、なんでもハイと、いう人にまた、お願いしよ
    となりますが、何か頼むと、ああだこうだと言う人には、あんまり仕事頼む気に
    なりません。
    人からの行為に、私のやり方があるから受け取れません。と、人には、もうあの人に
    言うのは、やめておこと、なりますが、
    なんでも、解りました。ありがとうございます。と言う人には、また、自分のために
    言ってくださいます。
    誰にも何も言われなくなってしまうと、人間関係で上手くいきません。

    この世は、やった事やココロ使いや言葉が返ってきます。
    人を許せば、自分も困った時に、許してくださいます。
    人のために、自分をおとしてハイハイと、使ってもらえれば、
    自分がお願いする時には、二度返事になります。
    必ずしも、結果を求めてする事は、利害関係がしゅうじて、自分の欲の
    ためにしている事は、高い気持ちで、流れていきます。
    相手に喜んで頂こうと、低いココロには、喜びが返ってきます。

    このように相手を敬わないのは、家庭に原因があり、親の背中を見て
    育ってきた事も関係している様に思います。
    親がそのおばあちゃんおじさんを敬い、夫婦でお互いが敬い、親が近所の
    方を敬う姿を子供に見せてしまうのも原因があると思います。
    最近では、夫婦喧嘩は、当たり前、三世代一緒に住んでいなく、奥さんが
    旦那さんの陰口を言い、近所との付き合いも薄れていて、家では、御先祖様を
    敬っていない家庭も沢山あります。

    私は、たすけあいの世の中を目指す信仰の話を、自分の感覚を混ぜて
    書き込みました。因縁の話をあまり入れずに書きました。
    ハイハイがハイ上がる道やで。
  • refresh約8年前
    退会したユーザー
    teketekeさん、こんにちは。お話しを拝見いたしました。


     

    ここからは、実際に私が尊敬する人から言われたことをお話ししたいと思います。お気に障るような内容でしたら、無理に読まれる必要はありません。すぐにスルーなさって下さいね。


     

    人を「見下す心」というのは、自分が相手を「見下す、見下ろしている」ように感じられるかもしれませんが、実は自分が相手を「見上げている状態」が「見下す、見下ろしている」状態なのですね。


     

    何故、そのような相手を見下している状態なのに、相手よりを見上げている状態かと言いますと「自己肯定が低い」ことが原因なのです。「自己肯定の高い人」ですと「自分の考えや感情は自分のもの」そして「相手の考えや感情は相手のもの」といったように「自分と相手を切り離して考えることができる」のです。


     

    相手の考えや感情は相手のものと認識しているので、例え相手と違う考えだったとしても、怒りや苛立ちや、その考えは許せないといった感情に揺さぶられにくいのです。「まぁ、別にいいや。勝手にやってくれ。」と、スッと気持ちを切り替えることができるのが「自己肯定の高い人」の特徴です。


     

    反対に自己肯定の低い人は、自分の考えや感情に自信がありません。なので「自然と自分にとって都合の良い人」を、傍に置いておきたくなるのです。「(自分に対して)思いやりがある優しい人」「(自分に対して)性格の良い人」「(自分に対してまっすぐな心を持ち善意で行動していて、公平で筋のとおった振る舞いができる人」これが自分にとって「都合の良い人」です。


     

    自分の条件に合う人達を自分の傍に置いておけば、自分が傷付くことはありません。しかし、自分と違う意見や考えを持った人間が目の前に現れ、自己肯定を傷付けるような言動をされた時は、自分にとって「都合の悪い相手」になり、必死で目の前から排除しようとするのです。


     

    こういった考え方や行動に出てしまうのも「自己肯定が低いこと」によるものであって、自己肯定が低くなってしまうも「小さい頃からの環境や、過去の経験や体験」によって起こるものであり「自分が悪いんだ」と責める人も多く見られますが、自分を責める必要は全くないです。


     

    自分の中にある「見下す心」というのは「自分の心を守りたい」という思いから生まれたものだと考えれば、見下す原因は相手にあるのではなく自分にあるという風にも考えられませんか?teketekeさんとは違う意見や考え方の人目の前に現れても「相手は相手の話しをしているだけであって、自由に話をさせてあげよう。」と思われるぐらいの気持ちで、相手と接していかれることでteketekeさんご自身の心も少しずつ楽になるかと思いますが、いかがでしょうか。


     

    実は、私自身もteketekeさんと同じように「相手を見下す心」があったことで悩んでいた時期がありました。私の場合は、とにかく相手が自分と違う意見を言えばイライラしてしまい、相手の言葉を聞かずに否定することばかりを考えていました。


     

    そうすることで、人の話を聞いても「全く面白くない」と感じましたし、人の言ってることが「全て信用できない、間違ったものだ」という考えにまで至ってしまいました。そんな時に、この言葉をいただいたことで「あ~・・・こんな辛い思いをしていた原因は周りの人ではなくて、自分自身にあったのか・・・。」と考えさせられました。


     

    考え直すまでには、もちろん少し時間もかかりました。当時、この話を聞いた時は「自分がバカにされている!」と感じたことでハラワタ煮えくり返ってしまい、相手を怒鳴りつけたこともありました。今思い出すと、とてもお恥ずかしい話しです。(笑)


     

    「根本的に相容れない価値観にさらされた時」は、teketekeさんがお話しされている通り「既に相手と根本的に考え方が違う」のです。話し合ったところで、根本的に違うのであれば話が食い違うのも当然です。相手と自分は価値観や考え方が違っていても「良い」のです。


     

    どうしても譲れない価値観があるのなら、そこは譲らなくても良いのです。そして、自分と同じように「相手にも譲れない価値観がある」ことを理解されたうえで、無理に自分の価値観を相手に押し付け、お互いを傷付ける方法を取るのではなく「自分の価値観を守るため」にも、自分から身を引けば良いのではないでしょうか。


     

    考え方の違う人の意見や考え方は、素直に聞いても良いのです。大切なのは「その考え方が今の自分に必要ない」と思ったら、話を聞いて「そこで終了」にすれば良いのです。相手の考えを正してやろうなんていう考えはいりません。話を聞いた時点で終了です。相手に物言いをしたくなった場合は、すぐにそこから離れてください。そして「自分は相手と考え方が違ってもいい、相手も自分の考え方と違ってもいい」と、心に何度も語りかけてみてください。少しずつ心が落ち着いてくるかと思います。


     

    teketekeさんが「楽しい」と思える日々が、これからドンドン増えていかれますよう願っております。
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