銀ノ月の日記『鏡花水月#018〈節分編⑤〉』
visibility310 edit2024.02.02

≪今日の鬼👹&豆知識🫘≫
明日はいよいよ〈節分〉である
今日は前夜祭、ということで決戦前の最後の準備をしようと思う
▶何故炒った豆を使うのか(補足)
節分豆はご存知のとおり炒られている
前回の日記では「魔(ま)の目(め)を射る」にかかっていると紹介したが、どうやら他にもあるらしい
炒った豆を使うのは、撒き終えて拾い忘れた豆から芽が出ることは「邪気が目を出す」として縁起が悪いとされているそうだ
豆をしっかりと撒いたにも関わらず邪気が残っているのは、もしかすると拾い忘れた豆があるからかもしれない
▶ま、豆が売り切れているわ…!
ご安心を。豆の代わりに別のものを撒いている地域もある
どうやら北海道や東北地方、鹿児島や宮崎などでは「落花生🥜」を撒いているらしい
撒いた後に拾いやすい・食べるときに衛生的・大豆よりも安いなどが主な理由なのだそう
お住いの地域が上記とは異なるとしても、何ら問題は起こらないであろう
なので、とち狂って手に持っている「豆腐」と「納豆」をどうか投げないで頂きたい…!
ある意味効果抜群だが、甚大な被害が発生してしまう
▶近所にワタナベさんがいないなぁ
ご安心を。どうやら「サカタ」さんもワタナベさんと同じ理由で鬼より強いとされているらしい
*ワタナベさん・サカタさんはあくまで撒かなくてもいいというだけであり、行事として楽しむ分には思う存分撒いてほしい*
▶学校から帰ってきたら玄関に変なものが…
それは恐らく”魚の頭が突き刺さった葉っぱ”なのでは?
大丈夫、いたずらではない
それは「柊鰯(ひいらぎいわし)」といい、文字通り柊の枝に鰯の頭を刺したものである
「柊のトゲで鬼の目を刺し、焼いたいわしの匂いで鬼を遠ざける」という魔除けの意味が込められているのだそうだ
▶『鬼は内、福は外』
京都のとある神社では『鬼は内、福は外』という真逆の掛け声をするのだそうだ
理由は諸説あるが、一つは「鬼を神社に招き入れ改心させ、福に変えてから外へ出す」ためらしい
何とも平和的な方法で、好感が持てた
ここまで色々と調べてきて、一つ心変わりが
本当に鬼は悪いのか?
もちろん悪鬼もいるが、その「悪」は人間からみて、ではないのか?
昨今の”悪役が魅力的に感じる”風潮ではないが、鬼を払うことは本当に私が心から喜べることなのだろうか?
…と、考えだしたらキリがないが、きっとこの言語化できない感覚はとても大切なのだろう
”鬼”と”人間”、言い換えれば”異種族”だが、同じ種族であったとしても人間は「自分」と「他人」で分けられる
理解できない・分かり合えないものを排除しようとするのは、シンプルで簡単だ
それ故「戦争」や「いじめ」といった残酷なものがこの世から消えない
きっと私がしなければいけないのは、理解できない・分かり合えないものに出逢ったとしても、それを「受容」し「尊重」すること、言い換えると「私は私、貴方は貴方、どっちも素敵だよね」と想うことなのかもしれない
これはとても難しいが、これが出来るようになった時、きっと私は私を少し好きになれるだろう
明日の節分をどう過ごすか、今一度考えてみようと思う
≪今日の音楽♪≫
リインカーネーション / ロクデナシ
個人的に心が落ち着く曲
壮大な曲調とゆったりめなリズムが心地よい
また、歌詞の中には言葉では表現できない素敵さがある
ちなみに『リインカーネーション』には「輪廻」「生まれ変わりを信じる」といった意味が込められている
読んでくれた人へのメッセージ
これまでの『鏡花水月』を読み返し、もっと”精度”と”面白さ”、そして”揺るがぬ安全性”を高めようと反省いたしました
まだまだ”独りよがり日記”は続きます
お手すきの時にでもお手にして頂けると幸いです🙇
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