しろすきーの日記

僕は愛という言葉があまり好きではない。

いろんなことを正当化し、理想化し、美化し、都合よく使い回され、その裏で生み出される膨大な悩みや苦しみを維持することに貢献している言葉のように感じるからだ。

僕は自分で勝手に愛という言葉を定義している。その定義は無条件の慈悲であり、無条件に大切に思い、労り、世界全てを包み込むような無限の心。

情という言葉がある。これは、個人的な感情のこと。好き嫌いが生まれる心。差別の元になる心。

愛情という言葉がある。愛に差別的な心である情というものがくっつくと、愛は愛情に変化する。我が子と他所の子に生まれる差や、特別に可愛がる生き物と邪険にする生き物とに生まれる差は、そのように作られる。

良いか悪いかではない。そこにある心の実態を、あるがままに、包み隠さず、そうなんだねって理解しなければ、愛という名の元に、余計な悩みや苦しみを維持してしまうということだ。

共依存という言葉がある。盲目的に、そして勘違いして生きていれば、悩みや苦しみが生まれてしまう。そして、それをどうにかするために、生まれた心の隙間を生めるために、何かに依存するようになる。

助けるものと助けられるものとに別れて、その隙間を埋め合うようになっていく。しかし、それではその隙間はまともに埋められることはない。だから永遠にそれを続けてしまう羽目になる。それがどれだけ裏で悩みや苦しみを生み続けているのかも気づかずに。

人は目の前にあるものを見ている訳じゃない。頭の中で作られた映像を見ているにしか過ぎない。その映像を見て、何かを思ったり何かを感じたりしながら生きている。寝ているときに見る夢のことを思い出せば、この事は何となくでも分かるだろう。

人類の最たる共依存は、宗教やスピリチュアルのようなものだろう。頭の中で想像し、感じ、それに依存することで心の隙間を埋め続けていく。

人間は自らを省みることができる。生き物であれば、その心身に何かしらの反応が出る。共依存の対象が生き物であったなら、その反応を見て、考え直すこともできるだろう。

しかし、頭の中で想像された神や仏や大いなる何かしらであれば、考え直すことはとても難しくなってしまう。

僕は愛という言葉を使わない。未熟なゆえに使わない。自らの心の実態が見えにくくなってしまうからだ。そこにある、あるがままの心を見えなくし、あるがままの自分を受け取りにくくなってしまうからだ。あるがままに無条件に大切にする心を見失ってしまいがちになるからだ。差別を差別として見つめられなくなりがちだからだ。

そうなんだねって理解し、あるがままに生きていくために、僕は愛という言葉を使わない。それで自分や大いなるものを飾らない。自分の心の隙間を埋めるために、そんなことをしていかない。本当にそれが事実であることが確かめられるまでは、そんなことに目を向けない。

そうやって、僕は僕のあるがままに生きていく道を守っている。裏で生まれる悩みや苦しみを遠ざけて、自分の心を守っていってる。

共依存的な生き方は、ある意味、楽なところがあるんだろう。だから、そういう生き方もそれはそれでなんだろう。

でも僕はそこから生まれる苦しみを許容することができない。それが見えてしまっているからできない。愛という名の元に生まれている悩みや苦しみが、見えてしまっているからそれができない。僕にはそれが耐えられない。

だから、僕はそれとは違った生き方をする。そこにある実態を有耶無耶にせず、覆い隠くさず、あるがままに理解し、あるがままに気楽にいきていくために。

favorite読んでくれた人へのメッセージ

いつもありがとうございます。あなたが幸せでありますように。

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