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40代 男性

障害者の方と関わったことある方

閲覧数303 コメント数13 person匿名さん edit2024.04.16

今現在40代で、仕事のストレスで適応障害になり今は休職中です。

これまではずっと調理関係の仕事をしていて、体育会系のノリで大半の人は気が強い人達で、感情的に怒鳴られることは多々あり、自己主張やこだわりもみな強いのか、パート同士でもケンカしてるような職場もいくつかありました。
私は性格的にはおだやかでのんびりで争い事が大嫌い。みなで譲り合ってお互い気持ちよく働きましょうよって考えで周りに合わせて良い人やってしまうので、そのせいで人から言われやすいのかパワハラに合うことも多く、適応障害を何度も繰り返してしまっています。

また、マルチタスクに多数の作業を同時進行で、スピードや効率を求められることも多く、1つのことをじっくり丁寧にやりたい私にとっては、苦手克服が仕事になってる要素も大きかったです。それでも何とかのべ10年以上この仕事を続けてきました。

でもどこ行ってもパワハラな人がいて適応障害を繰り返してるので、私には向いてないのかなと考えるようになってきました。
次も1番慣れた同じ職種、業界にこだわるべきか、これまでの経験を活かせる別の職種や業界に挑戦すべきか、さらにすべて手放して全く別の仕事に挑戦すべきか、この先の人生について色々考えています。

そこで今1番興味があるのが障害福祉。
でも、ただでさえにパワハラ気質な人限定ですが人間関係で病みやすい。ちょっとしたことを気にしたり悩んでしまう。
そんな私に向いてる仕事でしょうか?

良い面で言えば、繊細がゆえに気遣いや思いやりは強い方。人に感情的に怒ったりはしない(我慢してしまう要素が強いため)。
障害者施設で調理も少し経験してて、支援員されてた知り合いには、利用者に優しくできる○○さんなら向いてると思うと言われたことがあります。
でも私の中では、特に知的障害の方となるとどう接していいかわからないし、急に怒る人もいて、その時はすごく落ち込んでしまうので、利用者さんと接するのが怖いと感じることもあります。
そう考えたら、人と関わらない仕事の方が良いのか。でもプライベートは喋りは得意ではないですが、人集めて何かするのは好きだし、色々な人と話すのも好きだし、人は嫌いではないと思います。
でもパワハラする人、マナー守れない人、平気で嘘つく人などすごく嫌いな人もたくさんいますけど…。
そういう人に対してイライラはすごくします。もしかしたら人には当たらないけど短気な要素もあるのかも。
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コメント一覧

  • refresh2週間前
    退会したユーザー
    はじめまして、しろすきーと言います。

    僕は知的障がいのある方の職業支援員や、脳性麻痺のある方の生活支援員として働いたことがあります。あとは、精神障害のある方のためのボランティアとかやっていたことがありますし、プライベートも含めてこれまでに障がいのある人たちとは、そこそこ関わってきたように思います。そう言えば、祖父は身体障がいがありましたが、祖父に対しては障がいがある人として接したことはありませんでしたね。障害を感じさせない人だったからかもしれません。

    自分にはどういう仕事が向いているのか、とても悩む問題ですよね。

    どういう仕事がその人に向いているのか‥それは恐らく、そのお仕事をストレスなくやっていけるかどうかで仕分けられるのかなと感じています。

    仕事というものは、職場と役割で成り立つものですよね。ですから、その職場でストレスなく過ごせるのか、その役割をストレスなくこなせるのか、その二つが大まかな指標になるのだと思います。

    障がい者福祉の現場では、思いやりの心は大切になることが多いですが、かといって思いやることだけがその役割というわけではないでしょう。ですから、働きたい職場での役割を知り、その役割に向き合う気持ちがあり、しっかりとこなせる力があれば向いていると言えるのだと思います。

    職場というものは、入ってみないと分からないことばかりですよね。ある程度は調べられることがあるとは言えね。もし、その役割をこなすためのしっかりとした能力や性格があったとしても、その職場でストレスなく過ごすことができなければ、結果は良いものになりませんよね。逆に言えば、その職場に合わなかったことで、私はこのお仕事に向いていないなと思うこともあるのだと思います。巨人に入って結果が出ずに、僕には野球選手は向いてないなと思ったとしても、阪神に移ったら活躍しちゃったみたいなことはあったりするのかなと思います。特に障がい者福祉の現場のお仕事は、人間に対するものですから、現場現場で全く違ったものになりますし、同じ現場であっても、集まる人が変わると全く違ったものになってしまいます。

    役割をこなす力というものは、お仕事を始める前にある程度見えるものですが、職場については入ってみないと分かりませんよね。ですから、どうしてもやってみないと分からないのだろうなということになるのだと思います。

    ですが、これだけ現場現場で違ったものになるお仕事ですから、つまり多様性があるお仕事ですから、自分の力や性質にあったものが見つけられる可能性も沢山あると言えるお仕事なのだと思います。

    思いやることだけがその役割ではないと話しましたが、思いやる気持ちは確かに大切になるものです。そして、どのようなお仕事をする上でとても助けになることは、好きという気持ちですよね。人と接することが好き。その気持ちは、このお仕事をする上での大きな助けとなると思います。そういう部分では、向いているところがあるのだろうなと感じます。

    そして、こういったお仕事は、こだわることを捨てていく性質が必要なお仕事というように感じてもいます。自分のこだわりたいことにこだわる気持ちが強ければ強いほど、その役割をこなすことに支障が生まれやすいからです。しかし、こだわるところはしっかりとこだわることがその役割をこなす秘訣にもなっていきますから、こだわりどころを見つける力も向いているかどうかの一つのポイントかもしれないなと思います。

    とは言え、やってみないことには分かりませんよね。僕の話したことはあくまでもお話ですからね。初めから何でもできる人はいませんし、向いているところもあるようですし、挑戦してみる価値はあるかもなと思います。まあ、分からないことや出来ないことは、周りの人に聞いて覚えていけばいいことですしね。

    もし、不安が大きいようでしたら、イベントに参加してみたり、ボランティアに参加してみたり、見学できるようでしたら見学してみたりと、そういう世界に少しずつフェードインしていくのもいいかもしれないですね。たまに地域で障がい者の方が参加するイベントのようなものもあるでしょうし、探したらそういう施設に通っている方と触れ合う機会はあるのではと思います。

    長くなりましたが、僕が思ったのはそんなところです。何かしら参考になるところがあればと思います。
    • refresh2週間前
      匿名さん 40代 男性
      しろすきーさんありがとうございます!!
      障害福祉に詳しい方のお話はすごくありがたいです。

      やはり経験されてる方の言葉は違いますね。
      障害福祉の仕事はもう長いのでしょうか?
      ずっと同じ現場で働かれてるのでしょうか?
      どうしてそこまで長く続けてこられたのでしょうか?

      私は調理の仕事で主に給食関係を一貫して続けてきたんですが、調理もおっしゃる通りで同じ業界でも全然違うんです。規模によっても違いますし、例えば保育園、病院、老人ホームでも全然違います。
      例えば、保育園だと単純に女性職員が多い、アレルギーのことが多い、病院だと治療職になるので食材や調理法など制限が厳しくなる。老人ホームはお年寄りなので高齢者に合った食事が求められる。同じ調理でも目的も内容も違ってきます。
      そのあたりでも合う合わないはありました。あとは食数。50食程度のところもあれば何千食というところも。
      でも私のこれまでの経験を振り返ると、そこには大きな差はないと感じています。
      それよりも何より人間関係。これがすべて。どんなに勤務条件良くても、仕事内容が合っていても、パワハラする先輩がいたらもうそれどころではありません。
      私にとってはパワハラする人がいるかいないかどこが問題。そこさえクリアできれば、病気になることはなかったと思います。
      でもこの人間関係だけは入ってみないと分からなかったです。
      毎回そこはすごく慎重に選んでて、見学は必ずしてたし、なるべく調理に携わってる方と話す機会を設けてもらったりもしてましたし、半日だけ無償で働かせてもらたところも。
      それでも人って上司の前や最初は猫かぶってるし、ちょっと見ただけではわからなかったです…。
      面接時に、直属の上司(仕事する上で最も影響力のある人)になる方もいて、色々質問したりしてこの方なら上手くやれそうかなと安心してたのに、入って1週間したら急に人格が変わったなんてことも。
      たった1人。この日さえいなければ平和でも問題なかったのにって職場は多々ありました。でもそういう人ほど絶対辞めないし、良い人ほど辞めてしまう。
      これはどこ行っても同じ。
      絶望的に運が悪いのか、そういう人は必要悪でどこの職場もそういうものなのか、私が異常に被害妄想が強くてなパワハラを思い込んでるのか、色々考えたりしましたけどね。
      要するに、本来は私はこの仕事でこういうことがやりたいって想いがあったのに、実際はそれどころではなくごく一部のパワハラな人との関係に四苦八苦してて、まるでそのために働いてるような状態になってました。

      最近ようやくわかったことですが、私自身の心の癖の問題もあったんですが、でもしろすきーさんのお話を読んでると、そもそもこの仕事に私は向いてない部分もあったのかなと感じています。ストレスは人以外でもありました。
      特に今の職場で言えば、周り同士の人間関係も悪いから仕事がやりにくかったのもありますが、マルチタスクに複数のことを同時進行で効率よく素早く行うことが求められてました。1つ1つ丁寧にじっくり質の高いものは重要視されてません。

      さらに、今は知的障害施設の調理なんですが、利用者の方と接する機会もたまにあって、接しやすい人は良いんですが、会話が通じなかったり(それでもあいさつしたり、身振りでコミュニエーション取る方もいますが)、何かで急に怒りだしたり、正直利用者の方と接するのに抵抗感じてた部分もあります。
      常にずっと関わり続けてるのはストレスになりそうだなと。
      だから調理で少し関わるくらいがちょうどいい。調理は間接的ですが、それも立派な支援だと思うので。
      ただ、それってこういう施設で働く人間としてどうなのかなとも思ったり。

      精神の方は全く経験ないんですが、中には暴れたり難しい方もいるのでしょうか?
      私のイメージする精神は、同じ病気の人であれば真面目で優しい人が多いという勝手なイメージがあるので。
      とにかく私は人間関係でずっと悩んできたので、障害福祉でより人と近くなる仕事は私にとってどうなのかと考えてしまいます。
      どうしても自己犠牲で正しく生きようとしてしまうので、そういう障害者さんのために働くことが社会貢献や世のため人のためになるって意識もあるような気がします。
      私が本当に好きでやりたいことかどうかは別で。
      さらに私の特技を活かせる仕事でなければ活躍もできませんしね。

      支援の方と関わることもありますが、別にスキルは後からついてくる。それより大事のは利用者さんに優しくできること、人が好きであることだと話してました。
      私は正直分かりません。イライラすることはあるし、すごく落ち込んだり、関わるのを避けたくなることもあるし、人だって恨んでる人や嫌いな人だっています。誰でも好きと言うわけじゃない。

      ただ、あるカウンセラーの方は、頭で考えても当てにならない。こころ、体がワクワクしたり嬉しいって感覚になってる時がそれが本当に楽しかったり嬉しかったりするすることだと。
      私は何でもすぐ頭で考えて解決しようとするところはあるので、そこは変えていかなければとは思ってるんですけどね。

      今思い出しましたけど、ストレスなくできる時間は、調理を黙々と作ってる時は夢中になるし時間があっという間です!1つの物事に集中して何かを作るって作業は得意なはず。
      今の職場には人一倍喋りながら、でも手を動かすのも誰よりも早く、さらに1度に3つ4つの作業を同時にこなし、さらに頭の中では次の次の作業のことまで考えながらやってる。
      そんな先輩がいて、さすがにこれは私には無理だなって感じてました。
      単純にそういうの苦手だし、そうなりたいとも思えなくて。
      その代わり、私は味付けや盛り付けには定評があって、間に合う範囲内でじっくり時間かけて丁寧にやるので、そこは私の特化したところかもしれません。
    • refresh2週間前
      退会したユーザー
      お返事ありがとうございます。

      僕が福祉の現場に携わったのは、それほど長くはありません。とは言え、正式なお仕事以外も含めると、障害がある方との関わりの中で過ごした時間はそれなりに多いです。僕自身も障がい者枠の人間だったりしますから、そういう意味ではかれこれずっと言うことになりますね(笑) 人生いろいろとありまして、ものごとを、とりわけ自分を見つめていく機会が多くあり、障がい者の方と関わった経験からというよりは、ものごとを見つめてきた結果からお話しているような感じです。

      障がい者福祉というものは、その言葉通り、障害がある方の生活をよりよくするためのものなのだと思います。生活をよりよくしていく場合には、物理的なこともありますが、その多くの場合、自分自身を知っていくことから始まるように感じています。

      ですから、障害にある方に限らず、その人自身のことを知ることがその人の生活をよりよくすることに繋がっていくのだと思います。

      先ほどのあなたのコメントでのお話は、自分自身がどのようであるのかをよく見た結果出てきたものでしょう。私はこういう感じだなって言うお話でしたよね。このように、自分を知っていけることも人間の一つの能力で、あなたの先ほどのコメントを見ると、それなりにその能力あるのではと思います。

      障がいのある方でなくてもそうですが、そういう能力があまり育っていない場合、生活をよりよくすることが難しくなることも多いです。ですから、先ほど自分自身を見つめてそのようにしたことを、障害がある方に向けていけば、その方の生活をよりよくすることに繋がっていきます。

      つまり、あなたのこれまでの人生が、そのまま相手の役に立つということです。相手が自分を見つけていく手助けをする、それが難しい場合には、時にはこちらが見てあげる。そして、それがその方の生活をよりよくすることに繋がっていく、僕は福祉というものを、大まかにはそのように捉えています。そういう視点から見ると、自分を見つめる力がある部分も、このお仕事に向いている部分と言えるのかなと思います。

      『心の癖の問題もあった』とありましたよね。ということは、心の癖を見つめてきた経験があるということですよね。ですが、自分というものは心だけでできているわけではないですよね。『そもそもこの仕事に私は向いてない部分もあったのかなと感じています』とあったように、心以外の部分もありますよね。そのように、自分自身を見ていけば見ていくほどに、自分に気づき、よりよい生活に繋がっていくのだと思います。その場合、これはきっと心の癖だなと先入観を持ってしまうと、見る部分が狭くなるので、見る力はあっても見えなくなる場合があるかもしれません。

      あなたが調理で高齢者や障がい者のために働いていたのと似た感じで、僕は清掃のお仕事でそういった施設へ行っていたことがあります。閉鎖病棟で働いていた時に、そこで暮らしている患者さんから、「あなたの優雅にゆったりと掃除をしている姿を見ると、いつも心が安らぎます。ありがとうね」と伝えられたことがありました。結果的にそうなっただけですが、そういうことも一つの支援と言えるのだと思います。

      調理してお食事を提供することもそうですし、その姿を提供することもそうですし、お食事もその雰囲気も、それを味わう人の生活の一部ですよね。あなたもおっしゃっていましたが、そういうこともまた、よりよい生活に繋がっていく一つの福祉の形なのだと思います。

      あなたが丁寧に気持ちよくお料理をしているだけで、それもその周りの人の生活をよりよくするものになるのだと思います。そういう意味でも、ストレスなくできる仕事が、その人の向いているお仕事と言えるように思います。そうできる職場が見つかればとてもありがたいですね。

      そういう観点からすると、自己犠牲で正しく生きることが本当に世のため人のためになるのか?という疑問が出てきます。そして、正しく生きようとすることは、何が正しいのかを頭で考えながら生きるということのように感じますが、どうでしょうか。正しく生きようとすることは、頭で正解を考えながら生きていいこうという生き方のように感じています。

      しかし、実際のところ、今までのあなたにとっての正解は、あなたの体験から導き出されてきたのではないですか? 自分を見てみる、心を見てみる、振り返ってみる、話してみる、やってみる。いろんなみるがありますが、何かに気づくきっかけは、考えるということよりも、そういったいろんなみるから生まれてきたのではないですか? まあ、考えてみるというのもありますけどね(笑) 変えていかねばとありましたので、それに繋がれば思い、ちょっとした問いかけをしてみました。


      精神障害のある方についてですが、暴れたりする人や難しい方がいる可能性はあるだろうなと思います。実際にそういう場面に出くわすことも少なからずありました。まあこれは、障害がある方に限りませんが、もしこういう枠にある方と関わる場合、そういう相手を理解していこうとする気持ちが無ければとても大変なものになるだろうなと思います。

      ここでまた自己犠牲の話になるのですが、自己犠牲の上でという場合、そこに相手を理解しようとする気持ちが無くなってしまってないかな?と感じています。そこにあるのは理解というよりは、きっとこうだからという思い込みがあるのではと感じています。理解とは見ることから生まれてきますが、思い込みは考えることで生まれてきます。

      何が言いたいのかというと、頭で考えて解決しようとする癖が自己犠牲や正しく生きようとすることを生むきっかけになっているかもしれないなということと、よく見て理解しようとすることが、よりよい生活に繋がっていくことへの気づきを生むきっかけになるのではということです。

      頭で考えていくスパイラルと、よく見て理解していくスパイラル。二つのスパイラルがあるということです。どちらのスパイラルを活用していけばよりよい生活になっていくのかな?ということです。自分自身にとっても、そして障がい者の方と関わっていくことにとってもですね。

      またかなり長くなってしまいました。読むのが大変でしょうに、その点は申し訳なく思います。

      最後に、お話を聞いていて思いついたお仕事があったのでそれを書いてみます。それは、世話人です。後は、障がい者福祉ではないですが、そしてお仕事とは言えないかもしれませんが、子ども食堂のような形のお食事サービスです。

      世話人はグループホーム等の食事や掃除やその他の生活の手助けをする係のお仕事です。知的、精神、身体、高齢、その複合といろいろなグループホームがあると思います。数名程度の一軒家でのシェアハウスのような形のものもかなり多いです。食事は決まったものを決まったように作ることが多いように感じていますので、あなたのいいところが活かしきれないかもしれないかもなとは思いますが、そういうお仕事もありますね。子ども食堂のようなところだと、楽しく自由にできるかもしれませんね。まあちょっと、福祉のお仕事のイメージが広がっていったらいいなと思いお話してみた感じです。
    • refresh2週間前
      匿名さん 40代 男性
      しろすきーさん、おはようございます!
      ここまで真剣にかんがえていただきありがとうございます。

      おっしゃる通り、きっかけは10年以上前に仕事のストレスで初めて適応障害になった時からですが、病気と向き合うことから次第に自分と向き合ってきた10年だったと思います。
      最近見た動画がきっかけで気づいたことですが、病気になってしまうような自分はダメな人間。足りない人間。欠けてる人間。
      だから、その穴を埋めるために頑張ってきた。そんな感じでした。おの穴を埋める方法は、人から認められること。必要とされること。
      要するに正しくあること。それが私にとって最も大事なことになってました。そうでない自分は足りな人間のままで、生きる価値もないと思ってたから。
      でもどれだけ頑張ってもうまくいかない。
      私の場合はパワハラする人が相手でしたが、その人ともうまくやらなければ価値がなくなってしまうと思ってたので、何とかしてその相手とうまくやらなければいけません。
      結局その方法はとにかく嫌われないようにどんなことも我慢して耐えて良い人やることでした。何か言えば怒られるだけだったので。
      そして適応障害という病気を何度も再発させることになります。どこ行ってもパワハラする人がいたから。
      そして病気になってしまう自分を責め、さらに強化して嫌われないように頑張る。自分を犠牲にして押し殺してでも。もはやそれが生きる上で1番大事なくらいに。
      でも最近見た動画で、全く同じような方がカウンセラーに相談してる内容で、そこで気づかされたんです。
      あなたはなりたい自分になろうと自己否定しながら生きてきた。でも実は、あなたは最初からすでに完璧な完全体。良い面悪い面含めて完璧。ありのままのそのままの自分ですでによかった。
      にもかかわらず、足りないって自分の心や体を削って別の私になろうとしてた。痛いに決まってる。本当はそんなことしたくないはず。
      あなたはあなたのままでいいんだよ。そのままでいいんだよ。何かができるとか関係なくあなたはそのままですでに価値があるんだよ。
      私はずっとそう言ってほしかったんです。そのままの自分で大丈夫ってことを。
      もっと強くならなきゃ、もっとしっかりしなきゃ、転職繰り返さないようにしなきゃ、病気にならないようにしなきゃ、人から嫌われないようにしなきゃ、人から認められるようにしなきゃ、でもそれが私にとって本当にやりたいことではない。だからその先には何も明るい未来はなかったんです。
      そのことについ最近気づかされて。
      じゃ、ありのままの私が本当にやりたかったことってなんなんだろう?って。それを今模索してるところです。

      だから、おしゃってくれたようにその経験があるからこそ気づいたことたくさんあります。
      その経験があるからこそ、得意なこととしてできることもあるはず。

      人間関係で悩んできた私が人と密にかかわる仕事できるのかすごく不安だし怖さがあります。でもおそらく心のどこかでは求めてる自分も。
      子供と関わることって普段の生活でほぼないんですが、子供が好きで保育園で調理してたこともあります。でもやはりそこでも周りの女性上司やパートのパワハラ、いじめで病んで辞めてるんです。女性の職場でドロドロしてて、もう2度と保育園は無理と思ってました。でもそれは自動的に子供と関わる職場も避ける結果に。でも本当は子供が嫌いで辞めたわけじゃなかったのを思い出しました!
      子ども食堂もありかもしれません。ボランティアでもよくありますよね。本業でなくてもボランティアでやるのもいいかも。
      本業と考えると、一生続く仕事を求めてしまってハードル高くなりますけど、それを取っ払うと、意外とやってみたいこといっぱいあるのかもしれません。
      でもこれは無理だ。できるわけない。嫌な思いするに違いない。向いてない。そんなブレーキが邪魔してたように思います。
      心は求めてたかもしれないのに。

      でもきっと福祉は私に合ってる気がします。あとは、その中で私を最大限に輝かせる場所は何か。
      これもきっと私の中にヒントがあるんだと思います。これまでのこうしなきゃ、ああしなきゃってブレーキを少しずつ外していき、本当にやりたいこと見つけたいです。

      あとお聞きしたいんですが、福祉の仕事されてて、良かったこと、悪かったことってありますか?
      あと、職員によるパワハラやいじめってよくありましたか?
      調理はどこでもあったので。福祉業界は人手不足や過酷な労働環境とも聞くし、それによって現場も疲弊してたり、人間関係も歪んでたり、気が強い人ばかりってイメージもあるので。
    • refresh2週間前
      退会したユーザー
      さらにまた、自分についていろいろと見つけていけたようですね。あらためて、新鮮な気持ちでやりたいことを探していける感じを受けて、よかったなぁと思います。

      やりたいことというものの中には、どういう心でありたいか‥というものも含まれてくるのではと思います。明るい心とか、爽やかな心とか、穏やかな心とか、悩みや苦しみが無い心とか、そういう心であることを望まない人はいないのではと思います。

      もし仮に、何をしてても心がそうであるならば、やりたいことをあえて探す必要は無くなってしまうのでしょう。ですが、そうでなかったとしても、心から何かをやりたい時に人が本当に求めているものは、そのやりたいことというよりは、それをやった時にあるであろう明るい心なのではと感じています。そのように、何をしたいのかという元には、その時のこころがどうであるのかということが必ず付いてきますよね。

      今までの、そしてこれからの日常で、どういう時に自分自身の心が明るいのか、それを見つけていくことも、自分自身の本当にやりたいことに繋がってくるのではと感じています。そしてそれは、これまでの人生の中でやってきたことでもありますし、今やっていることでもあるのだろうなと思います。

      あなたのコメントを読んで、とてもつらい時期を長く過ごしてきたのだなぁと思いました。自分を見るということが、自己否定につながり、自分をしんどい方向へ引っ張っていく結果になりました。

      ですが、これからは、その自分を見るということが否定も肯定も存在しない、自分は今そうなんだなという自己理解へ繋げていけるのではと思います。あるがままにあることを、そして、あるがままにしかないことを見て、それを理解し、こうであるべきとか、この方がいいとか、そういう思考からの解放へ繋げていけるのではと感じています。頭で考えて解決しようとすることを変えていくということは、そういうことでもあるのではと思います。

      因みに解放っていうものは、そう考えなくなるというよりも、そういう考えに執着しなくなるという感じですかね。そう考えてしまう時は、そう考えてしまう時ですもんね。こうするべきと思う時、こうなりたいと思う時、そして、こうすべきと思いそうする時、こうなりたいと思いそうなろうとする時、それもまた、それがあるがままの今ですしね。

      頭で理解することは不可能なことですから、こういう話も体験してみてということになりますが、そのニュアンスを頭で理解できる力があるというのは、あなたの長所になり得るのではと思います。見ること、体験することへの手助けとしてなら、頭を使うということは役に立つものだと感じています。

      福祉の仕事をしていて良かったと思うのは、やっぱり自分に気づくきっかけを得る機会が多かったことですかね。それは福祉の仕事以外でもそうでしたから、特に福祉ならではの体験で言うと、知的障害のある方との関わりを持てたことだなと思います。

      とある施設に暮らしている人で、言葉をしゃべることができない人がいたんです。言葉はしゃべれませんが、ウーとかワーとかそういう発生はできましたから、そういう発生や身振り手振りで僕に何かを伝えてくるんです。その人はいつも満面の笑みでウーとかワーとか大きい声を出して僕に近づいてくるんです。

      その言葉を介さない、言葉に色付けられない、そのままの心に近いその表現が僕にはとっても心地よくて、それに感化されて僕も同じようにウーとかワーとか、その時あるその心をその方に伝えたりもしていました。

      そういうあるがままの心に違い表現同士のコミュニケーションを体験できたことが、その方と関わり合えたことが、自分自身が何を大切に思い、何を求めているのかを見つける大きなきっかけになっていると感じています。障がい者福祉の現場でなければ、このような体験は無かったかもしれません。

      悪かったことは特に思い出せませんが、嫌だったことや辛かったことはそれなりにありました。嫌だったのは、自分を殺していかざるを得ないところが多かったことです。雇われるということには、どうしても組織の方針や組織の人員としての立場を大切にする必要が出てきますから、それはちょっとと思うようなことがあったとしても、受け入れざるを得なくなりますよね。僕はそれが嫌でした。細かいことはハッキリと思い出せないのですが、小さいところからちょくちょくありました。僕の場合は、だったら辞めるという感じの性格でしたから、長くは続かなかったです。

      辛かったのは、たくさんのことを一度に的確にやる必要がある現場の時です。やるべきことが多すぎて、多すぎるから利用者さんたちのことを丁寧に見てあげられませんでした。体も気持ちもすぐに疲弊してしまいました。僕には無理な役割でした。これはどうあがいても無理だと感じ、僕には無理ですと伝え、すぐに辞めさせてもらいました。

      思い返してみると、そういえば、あなたとよく似ているなぁと思います(笑)

      職員によるパワハラやいじめは僕個人としては、ほとんど感じることは無かったです。あの人があの人にこんな風に接したというような噂や、職員同士の諍いはそこそこありました。

      福祉って理想を掲げるようなお仕事でもあるでしょう。ですから、そこに集まる人もその人なりにいろんな思いや考えを持っていることも少なくないと感じています。単にその作業が好きだからとか、お金のためにという理由だけでない場合が多いなと感じています。ですから、自分なりの思いの実現が無意識的にでも含まれやすく、それ故に、それぞれの思いがぶつかり合いやすくはなるのかなというような印象です。

      そして、おっしゃるように、人手不足でかなりのことをいっぺんにこなす必要がある現場も多いですしね。人手不足だからこそ、面接も甘くなりやすく、向いていない人がいるような現場になりやすくもあるのかなと感じます。それに加えて、福祉でお金儲けをするという現実もあったりしますから、いろんな思いといろんな状況、そしていろんな欲が絡み合いやすい世界なのかもしれませんね。とは言え、やっぱりそれも現場現場ですから、この業界はこういうものだということは、あるようでないのかなと感じています。
    • refresh2週間前
      匿名さん 40代 男性
      こんばんわ。
      今休職中なんですが、職場のパートさんがいつも心配してLINEをくいれてて、気にかけてくれる人がいるってだけでもすごく救われます。先輩社員との関係が主な理由ですが、ここの職場でやってきたことは決して無駄ではないなって。
      そういえば、しろすきーさんは今は働かれてるのですか?


      いま40半ばになるので、今から新しいこと始めるって正直抵抗はあるし、実際求人も40代になってから厳しくなってるのを感じるし、本当ならもっと若い時に自己理解や自分について気づければよかったって思うんですけど、でもきっとおそらく私は40数年生きてきたからこそ気付けたんですよね。
      人によっては一生気付かないまま、自分のやりたいこともよくわからないまま生きてる人もいるでしょうし。

      おしゃる通り、私が今回見つけた動画ではやりたいことを見つけるための自己理解について教えてくれてるんですが、ただやりたいこと探しということではなく、自分の大事にしたい価値観、自分の得意とすること、好きなことなどこれらがすべて合わさったものが、本当にやりたいことにつながるらしいです。
      どういう心でありたいかと言うのはまさに価値観に該当すると思います。私の場合で言えば、争い事が嫌いなのでもっとみなで協力しあいたい。パワハラなんて言語道断。プライベートの時間も大事にしたい。私と同じように苦しんでる人がいたら、そのままのあなたでいいんだよって伝えたい。みたいなことですかね。
      まだまだここは模索してるところで、もっとたくさんありそうな気がしますが。

      頭で考えたことは嘘が多いしあまり信用しない方が良い。体で感じたことは正直だってある人も話してました。
      たしかに、病気になる前も気持ちはまだ大丈夫でしたが、体は正直で色々なところにサインは出てました。
      それに楽しかったり感動したときも、胸のあたりが温かくなったり、涙が出てきたり、そういう時って頭で感じた者とかではなく、本当の自分の感情なんだろうなって思います。
      調理の仕事やるきっかけも飲食のバイトで、自分が作った料理を食べたお客さんから美味しかったですと初めて言われた時でした。その瞬間鳥肌が立つほど何とも言えない感動があって。これは心がそう感じたことだと思います。頭で色々考えて感じたことではなくて。
      私は中途半端に頭が良いというか、色々考えたり頭で解決しようとするところがあるので、それで思い込みに支配されたり、脳に騙されてしまうことは多かったと思います。

      障害者さんと関わると、確かに言葉以外の部分で会話したりしてますよね!ほんと観察力というか、近くでずっと見てる支援の方だからこそ分かり合える部分があるんだろうなっていつも近くで思ってました。
      それと、支援の方と利用者の方の距離感がすごく近くないですか?スキンシップもそうですし。
      私は、その距離感が私には難しいって感じてしまうんです。普段人と関わる時も、そこまでお互い近い人っていないので。親でも友達でも恋人でも。ある程度の距離感はあるし。
      なんて言えばいいかわからないですが、本当にこの利用者さんのことが好きで接してるんだろうなって印象。なんでそこまで好きなんだろうって。相手が利用者さんなら誰に対してもです。話しやすいこの利用者さんだけということではなくて。
      実は、支援の方に誘われたことがあるんです。
      ○○さんは利用者さんのこと考えて料理(特に盛り付け)してくれてる。接するときも優しい。そんな○○さんなら支援向いてると思うし、そこにいるより(先輩社員達の評判悪いのを知ってるため)こっち来ないか?と。
      その時は、先輩らが嫌で辞めようか悩んでた時で、でもずっと続けてきた調理の仕事を離れるのは考えられなかったし、先輩らが嫌だから支援に行くって考えで通じるほど簡単なことではないと思ってたのでその時は断ったんですけど。
      それに自信がなかったのもあります。正直、生活支援だったので下の世話もあるし、そこは進んでやりたいとは思えなくて。
      そう思ってしまうなら支援の人からすればいい気はしないでしょうし、これはさすがに向いてないなって。

      悪かったことを特に思いだせないってびっくりです!
      それだけ、良い職場だったり、人間関係が良かったり、勤務条件が良かったり、しろスキーさんに合ってた仕事だったからですか?

      私もマルチタスクにやるのは苦手で、スピードばかり求められるのもしんどいです。例えば営業の成績を競争させられるとかも。利益を追求してやるってのも苦手かもしれません。
      1つのことをじっくり丁寧に時間かけてやるってことは得意。
      そのため調理であったら、なんとかして調理するまでは効率よくスピーディーに仕上げる。そのあと盛り付けだけは時間かけてじっくり丁寧にみたいなやり方はしてました。
      でも調理の現場でこのタイプっていなくて、とにかくみなせっかちだし多少雑でも早く終わらせて休むなり他のことやりたい。
      だから、余計なことするなって空気で誰かと一緒にはできなくて、私が1人で作業する時だけはこれやってました。
      それが結果的に支援や利用者さんに喜ばれて、こんな風に盛り付ける人がいるのは初めてとか、利用者さん喜んでたよと言う声を聞いて、その時はすごくうれしかったですね。
      この特技は活かしたいんですけどね。

      どこの職場も何もないところはないし、学校の教員をやってる友人もいますが、話を聞くと相当な過酷な現場らしいです。やりがいだけでは埋められない。
      だからこそ、好きなことやりたいことだけでは続けられないんですよね。やりたいことで、しかも自分にとって得意で苦無くできることで、さらに自分の価値観に合った働き方ができる。それが理想ですね。
      そのために必要なスキルは努力して学ぶ必要ありますが、それは自分が本当にやりたいことのための手段なので、やらされてるわけじゃないし、自分の足りないものを埋めるためでもないし、世間や常識のための自己犠牲でもないし、それなら続けられるでしょうね。
    • refresh2週間前
      退会したユーザー
      僕は今お仕事をしていません。いろいろあってお仕事ができる状態ではなくて、生活保護を受けながら生活をしています。

      僕が悪かったことを思い出せないのは、悪いという概念が自分の中で無くなってきていることと、悪いという評価をしたくなる気持ちが無くなっているからだと思います。嫌だとか辛いというのは気持ちですから、その当時の気持ちがそうであれば、今そういう気持ちでなくても、そういうことがありましたと、それをお話しすることはできます。ですが、悪いというのは評価で考えですから、当時そう思ったとしても、今そう思ってなければ、あれは悪かったという思いが出てきづらいという感じでしょうか。

      おっしゃるように、人や職場がよかったり自分に合っていたりしたのかもしれませんが、というよりは、何に対しても悪いと思えなくなってきているということが主な理由だと思います。

      お仕事ってその職場の役割をこなすことでもあるじゃないですか。ですから、好きという気持ちがその役割をストレスなくやっていく要素にもなるし、逆に、その役割を歪めてしまう要素にもなり得ますよね。

      福祉という考え方が福祉業界全体にあるにせよ、その職場はその職場で考え方があり、やり方があり、慣習のようなものもあったりするでしょう。人間社会ですから、どの社会でもそういうものがあるでしょう。ですから、そこでの役割も、そういう中でその中身は決められていくものですよね。

      そこにある役割をこなそうとする場合、好きだという気持ちが余計なバイアスになってその役割を歪めてしまったり、逸脱してしまうことも少なくないと感じています。

      人としてとか、一般的にとか、そういう観点から見ると喜ばしい事であっても、そして素晴らしく感じることであっても、それがその役割を外した行為だと、結果的にその組織全体を歪めてしまったりもしてしまいます。その職場では、慣習的にその役割を適当にすることが、その役割の一部になっているような場合もあったりしますから、そういったことも踏まえて、ものごとを見ていく必要があるように感じています。

      人として喜ばしかったり、素晴らしいことをすることでその組織が歪んでしまうということは、違う言い方をすれば、そもそもその組織が歪んでいるからということですよね。その組織の考え方なり、慣習だったりが歪んでいるということですよね。

      だとすれば、その人の行為はその組織をよりよいものにするはずのものでしょうから、そういう点で見れば、それでいいじゃないかということも言えそうです。ですが、その場合、そうする人はそれだけのことを背負ってそうしているのかということが問われてくることになるのだと思います。

      その時に、そうです私はこの組織を背負って、気持ちだけでなく実質的に背負ってそのようにしているのですと言うのであれば、なるほどと言えると思うのですが、個人的な好きだからという感情でやっているだけなのだとしたら、その組織に関わっている人からは、ちょっと待てよということも出てくるだろうなるだろうなと思います。

      世の中をよくよく見てみれば、好きだという気持ちがその対象へ愛着を生み、いろんな問題を起こしていることはたくさんありますよね。好きという気持ちは、自己満足を求めているからこそ生まれる気持ちで、本当に相手のためということであれば、好き嫌い関係なく相手に適切に触れ合えます。適切な距離で適切な程度で動けます。愛着的に大切にすることは、本当には相手のためにならないことも世の中の多くの事象で見られることですよね。

      好きという気持ちは、お仕事にとってもとても助けになる気持ちですが、諸刃の剣でもあるということです。これもまた、好きだという気持ちをうまく活用するための一つのポイントかなと思います。

      思考を大切にしすぎてもうまくいかないことがでてくるし、感情や感覚を大切にしすぎてもうまくいかないことがでてきます。つまり、人は脳だけではなくて感覚や心にも騙されるということです。騙されるというのは、適切を外してしまうという意味です。適切を外してしまうと当然、何かしらがうまくいかなくなってきます。

      思考の支配を見抜ける人は結構いますが、感覚や感情の支配を見抜ける人はそれほど多くないと感じています。ですから、それを見抜くこと自体が難しいことで、見抜いたとしてもそれに執着してしまいがちなので、どうしようもなかったりする場合も多いです。ですが、このことを知っておくだけでも、何かあった時に、自分を守る助けになるかもしれません。お話を聞いていて、ちょっとだけ危うさを感じましたので、一応このお話もしてみようかなと思いました。余計なトラブルも避けたいところでしょうしね。

      動画も私のお話も同じように、他の人が言っているだけのお話にしかすぎません。本当にそうなのか、ぜひ確かめながら活用していってはと思います。~だと思うとか、きっとそうかもしれないというものを信じるのは、ギャンブルみたいなものですからね。

      体験を通さないと、見ることも理解することも生まれてこないから、そういう意味で、体験を通してとお話ししました。体験で得た感覚や感情を大切にすることと、それらをよく見て理解することとは別物で、そこも多くの人が見抜けないポイントだと感じています。そして、それを勘違いして人に伝えようとする人がとても多く、個人的に何かを発信することがとても簡単な今、そういうものが無数に乱立している状態だと感じています。

      ですから余計に、本当はどうかな、実際はどうかなと、自分自身で確かめながら進めていってはと思います。きっとこれは良いものだという思考や、これにはとても感動したという感情に騙されないように、まあ、そうは言っても騙されながら進んで行くものかもしれませんが、できるだけ慎重に進めていってはと思います。

      いろいろと言いましたが、余計な話が多かったかもしれませんね。

      とりあえず、気持ちよくやっていけるものに出会っていけたらいいですね。とにもかくにも、あなたが苦しんだりすることなく明るい気持ちで過ごして行くことを想っています。
    • refresh2週間前
      匿名さん 40代 男性
      ありがとうございます。

      自分と向き合うって苦しいことも出あるけど、でも新たな可能性も見えてくるし、自分の心に従って行動したいと思います。
      どうしても、色々な外部からの情報や常識などでこうすべき、ああすべきとなったり、人と比べてしまったり、本来の目的を見失いがちなので。

      しろすきーさんもお身体には気を付けてくださいね。
    • refresh2週間前
      退会したユーザー
      こちらこそありがとうございます。

      何となく似たような二人が出会い、何となく、でも有意義なやり取りだったと思います。あなたとの出会いは自分との出会いでもありました。

      たとえ自分一人であっても、心は共にありますね。僕も心と共に過ごして行けたらと思います。


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