「悲劇のヒロイン」について考えてみる

最近よく「悲劇のヒロイン」なんて言葉を耳にします。
悲劇のヒロイン、ヒーロー。
「悲劇のヒロインぶるなよ」とか言われてきたのもあってなんとなく相手を非難・否定するときにつかわれるイメージを持っていたのですが、最近は変わってきています。

悲劇のヒロインって、ダメなのかな

「悲劇のヒロイン」ってどんな感じでしょう?
私はこんなにかわいそうなの。だから慰めて。がんばってるのを見て。褒めて。独りにしないで。私はこんなにこんなに苦しいの。悩んでいるの。助けて、誰か助けて。
言ってしまえば「かわいそうアピール」ってところでしょうか。
どちらかといえば、褒めるときにはつかわれないですよね。非難されるときにつかわれることが多いでしょう。
けれど私は「悲劇のヒロイン」を肯定的に捉えています。

悲劇のヒロインになれないのは、苦しい。

私には「かわいそうアピール」をしきりに行っている時期がありました。
本当は「好き」って言ってほしいけれど、「嫌い」よりも「無関心」のほうがイヤで、孤独でこわくて悲しくて、誰かに見てほしくて、必死に自分を表現していました。
当たり前だけどそれを受け入れてくれる人はいなくて、結局またひとりぼっちになってしまいました。そんなことから私は、自分のことを話すことをやめました。特に愚痴や弱音の類はどうしても言えませんでした。
言い出したら止まらないし。言ってもどうせ否定されるし。加減なんてわかんないし。だったら最初から諦めたほうが楽じゃない。
そんなふうに考えていました。
けれど今は、こう思うんです。
悲劇のヒロインになれないのは、苦しい。
別に、「かわいそうアピールを受け入れて」なんてことではなくて。
つらいときにつらいと言えないのは、孤独なときに助けを求められないのは、苦しいです。
私は一時期弱音を吐けなくなりました。自ら吐かないでいるうちに、吐き出し方がわからなくなってしまったんです。気づいたら、泣くことも笑うこともできなくなっていました。
今自分が楽しんでいるのか、悲しんでいるのか。生きているのか、死んでいるのか。続けたいのか、やめたいのか。自分のことはなにもかも分からなくなってしまって、もう助けを求める事もできませんでした。
私は幸いなことにその後数々の縁に恵まれて、再び泣けるように、再び自分の感情がわかるようになったけれど、それはほんとうに稀で、幸福なことだったと思います。
「できないことをする」のはすごーく難しいです。「できることをしない」のはわりと簡単です。でも意外と「しなくなったことをする」のは難しいものです。
できることはしちゃいましょう。
それを非難する人がいても、「こうするべきだ」と言ってくる人がいても、やっちゃっていいんです。それを受け入れてくれる人は、必ずいるから。
鷹れん

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