てるの日記
visibility487 edit2023.07.06

今日も昨日と同じくKiroroの歌が、たびたび頭の中を流れてきた。
昨日と違っていたのは、強く浮かんでくる歌詞の部分。
今日は、
ふーあーんに なーると~
てーを にぎぃーりぃ~
いっしょにー あゆーんでー きた~
の部分だった。
ここ数ヵ月、ほとんど誰ともコミュニケーションを取ることがない生活から一変して、訪問看護の人と電話やメールで、それからココトモの人とここで、話を聞いてもらったり聞いたりする日々を過ごすようになっていた。
そういう中で、少しずつ、人との関わりの印象や質が変わってきてる感じがしている。
普段のコミュニケーションでもそうだけど、特に相談事や悩み事の話しになると、相談に乗る側と乗られる側、支える側と支えられる側、アドバイスをする側とされる側、そういう立ち位置が無意識的にも作られていきがちな感じがしていた。
そして、どうしたら楽になるか、どうすればいいのか、答えは何かっていうような正解を見つけることばかりに気持ちが行きがちな感じがしていた。
でも、訪問看護の人やココトモで出会った人たちと接してきて、コミュニケーションの1番大切なところは、そういったところじゃないかもなって感じ始めてきている。
その感覚が、今日、頭の中で響いていた歌詞、「不安になると手を握り、いっしょに歩んできた」に現れているように感じた。
一歩先に立って手を引っ張るのではなく、ただ手を取りいっしょに歩く
こうだからね、ああだからねって先生のようになるのではなく、不安になったときに手を握り、その人の道をいっしょに歩く。
もちろん実際には、アドバイスをするときもあるだろうし、解決方法を探したりもするだろう。
でも、その時の心の有り様が先生ではなく、共に在る者。
人の心が開かれるのも、人の心に落ち着きが取り戻されるのも、その立ち位置に立ってこそかも。
相手への信頼と、相手の人生の尊重も、その立ち位置に立ってこそかも。
共にあることそれ自体に、問題を解決する力があるのかもしれない。悩みを乗り越えていく力があるのかもしれない。暗闇を晴らす力があるのかもしれない。
そんな風に感じてきている。
最近、どこかで先生のいない学校っていうのができたらしい。
詳しくはしらないけど、ちらっとニュースで見た(気がする)。
時代もそんな風に流れて行っているのかな?
何が正しいのかは分かんない。
でも、僕はその歌詞のように、不安になると手を握り、いっしょに歩んで行けれるようなそんな人、共に在る者そんな人、そんな人になれたらいいな。
そう思った。そんな1日。
今日は何故かお腹が空かなくて、夜の10時まで何にも食べてませんでした。
夜の10時を過ぎたあたりで、納豆ご飯を食べました。
今日よかったこと♪
納豆ご飯を食べた
日記をかけた
訪問看護の人やココトモの人とお話しできた
コンビニの店員さんに、分からないことが聞けた
商品を開けて破って(店員さんが)、一つダメにしながらも一生懸命説明してもらえた
お陰で欲しいものを手に入れられた
とっても優しく接してもらえた
読んでくれた人へのメッセージ
開いてくれてありがとう
きっといいことあると思うよ
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