しろすきーの日記
visibility72 edit2024.04.15
今日、少しだけ人と話した。
聞かれたことに返事をしていた。
返事をすると、優しいねとか、あなたのようによく考えてからにしないとねという返事がかなりの頻度で返ってきた。その人にとってはそう感じるんだなぁと思った。
僕は僕で、僕自身のことをそのようには感じていなかった。
なぜなら、僕は感情的な優しさでそのように話したのではなかったし、よく考えてそのように話したわけではなかったから。
よく考えることが大切だとか、気持ちが大切だとか、世間でもそういうことが言われたりする。僕はそのどちらも、それほど殊更に大切にする必要があるようには思わない。どちらにしても、したければすればという感じだろうか。僕も普段そうしているし。そもそも、何が普遍的に大切かということは、あまり意味がない話だろうなとも思うしね。大切なのはこれだ‥と思ったとしても、結局はその時その時があるだけなのだろうから。
ちょっと話がそれたけど、最初の話で感情的でもなく、思考的でもなく、じゃあ僕がどうあったのかと言えば、それは、理性的だったのではと思う。理に沿ったものという感じだったと思う。
理性的であれば、そこから出てくるものは調和的なものになる。調和的であれば、時には優しく感じたり、時にはよく考えているように感じたりすることはあるだろう。でも実際には、そういう時は感情的ではないし、よく考えてもいない。感情や思考といった自己中心のものは関わっていない。そこに自分は関わっていない。理が、仕組みが勝手に導き出す。
調和的と言えば聞こえはいいけども、実際にはその聞こえ通りじゃない。それは時にはとても厳しく感じたり、時にはとても残酷なものに感じたりすることもあるだろう。それは、自然の恩恵と猛威を見てみればよく分かることのように思う。
それでも、理性的であれば、そして調和的であれば、それがどのような恩恵であっても、それがどのような猛威であっても、その二つに差を感じにくくなる。その二つに違いを創りにくくなる。そのどちらに対しても安らかに対峙しやすくなっていく。
どうしたいのかという気持ち、どうすべきなのかという考え。感情と思考。そういうものもあるだろう。でも、本当の意味で人が幸せに、安らかに生きていくには、きっとそのどちらでもなく、そういった自己中心的なものではなく、理を知り、理性を身に付ける必要があるのではと感じている。
今日、人と話してあらためてそのことを感じた。
だからと言ってこれもまた、そうすべきとか、そうしたほうがいいとか、それが大切だとかそういうことではないけどね。それが必要なんだろうなと感じているということだけで。。
僕自身、言うほど理性的ではないですから、相変わらずそれなりにいろいろとあるけども、まあそれもまた‥‥‥というような感じですかね。
読んでくれた人へのメッセージ
いつもありがとうございます。全ては関わりがあってのことですね。あなたが幸せでありますように。。
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