みっちーの日記『生は刹那、生き様は永遠』
visibility61 edit2023.09.10
先日、叔母が亡くなりました。59歳でした。親戚が亡くなった経験はこれまで何度かありましたが、「人間の最後の一呼吸を、生と死の境界を、この目で見届ける」ということは、自分にとって初めてのことでした。
生きているということが、その状態が、なんと尊く奇跡的なプロセスなのだということ。そのことを強烈に感じ取った経験でした。息を吸い、息を吐く。心臓が鼓動し、血が巡り、体温を維持する。知覚する。動作する。最後の叔母は、まるで魂の言葉を強く発するかのように、呼吸をしていました。最後に触れた肌は、自分と同じくらいの温度でした。
ココトモにて様々な方のお話を伺う機会を得て、「生きていくことはなんと大変なことだろうか」と感じることも増えました。情報に溢れかえり、スピードが増し、益々複雑化していく社会。それでいて、何か確立した指針や価値観が与えられるわけでもなく、それぞれがそれぞれで探索し見いださねばならない。立場や環境、能力などの、自己制御できない前提条件が良くも悪くもモノを言ったりする。大変です。
しかし、そういった諸々すらも越えたところに、「生きている」ということがあるのだということを、叔母は教えてくれました。「もうなにもかも嫌だ」と思う、生きている自分。「辛い、痛い、逃げたい」と思う、生きている自分。どのようなことを思い、悩み、行動しようが、必ずそこには生きている自分が寄り添っているのだと。刻一刻と、「生きている」を維持している自分がいるのだと。言われてみれば当たり前で、わざわざ言語化することでもないのかもしれません。が、今は、その事実に心が震わされている自分がいます。
叔母は、筋の通った、凛とした、強い女性でした。頑固で折れない。自分のスタイルを貫く人でした。時と場合によってはそれが問題の引き金になることもありましたが、カッコいい人だったなと、回顧します。そうした叔母の生き様は今でも、私のなかで生きています。ふとしたときにその生き様にアクセスして、叔母と対話しよう。そんな風に思っています。
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