メロの日記『心を広げる』
visibility92 edit2023.10.28
昨日の話。
昨日は買い物に行った。
僕はまっすぐ歩かない。歩かないと言っても意識的にそうするわけではない。起きてくる衝動に任せることが多いから、結果的にまっすぐにならないという感じ。
あっちを向いたりこっちを向いたり、大きく蛇行したり、手や腕をいろいろと動かしたり、ものすごーくゆっくりゆっくりになる時もある。
歩くのがこういう感じになってきたのは、最近のことでそんなに昔のことじゃない。
僕は小さい頃からずっと人目を気にして生きてきた。だからこういう感じで歩くのは、人目を気にする気持ちを刺激することにもなる。
ただ、こういう感じで歩くようになったのも、人目を気にすることが減ってきたからでもあって、人目を気にしないからこそ、こういう自分がそのような感じのままで歩くことができるのだ。
人目を気にするという性質は残っているけど、その性質に囚われなくなってきたという感じだろうか。。
昨日の話に戻るけど、そんな感じで歩いていると前から一人の女の子が歩いてきた。
その時、その子が僕を窺うようなイメージが僕の頭に浮かんできた。
その子のことをよく見てはいないので、実際にそうしているかどうかは分からない。
どう思われるかという人目を気にする性質が僕にそのイメージを浮かばせてきたのだろう。
瞬間的に僕は観察状態になり、僕の中で何が起こっているのかを掴もうとした。
意識がそのイメージを掴もうとしている。そのことを認識した僕は、反射的に掴んじゃダメだと踏みとどめた。意識はそのイメージを掴むことを辞め、また心へと帰っていった。
そうするとそのイメージは流れ、僕は人目を気にするということから解放された。
自分の頭の中に起きてくること、それを掴めば囚われるし、掴まなければ囚われない。
これは、外で起きてくることも同じだろう。何が起きても掴まなければ現象は流れていくだけなのだろう。そんなことを思いながら、またいろんな動きをしながらお店まで歩いて行った。
僕の中にあれはおかしい、これがまとも、そういう概念がある。だから、僕自身の歩く姿をそれに合わせて判断している。それを元に人目を気にする。
僕が何でこのような状態になり、何で人目を気にしたりいろんな出来事に出会っていくのか、それは、心の狭い僕がいろんなことを受け入れられるようになるためかもしれない。
そういう自分、そういう自分を受け入れられるということは、そういう性質を受け入れられるということ。そして、それはそういう相手も受け入れられるということ。
僕は人生を通して、心を広げるための体験をし続けているのかもしれないな。
今日は、いちじく味の豆乳を買いました。パックにこのいちじくはこの県産のこのいちじくで、大豆もこの県産のこの大豆でって書いてあって、パックの絵柄もなんかいい感じで、見てすぐにこれにしようって思って買ってきました。
帰ってきて、「これ買った♡」ってそのパックを持ち上げて呟いてしまった。そういう時は心がそっと明るくなるのだけども、その呟きを聞いてくれる人がいないことを感じると、その明かりはまたそっと落ちていく。
そんな自分を感じながら、その豆乳をちゅーちゅー吸った。パッケージにいろいろと書いてあったこともあり、それが作られた背景を、それを作ったであろう人たちを思い浮かべながらちゅーちゅー吸った。
全部飲み干してしまった後も、パックをプクーっと膨らましては吸い込んで、膨らましては吸い込んで、しばらくそうやって過ごしていた。
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