銀ノ月の日記『鏡花水月#064〈きっとそこにないから〉』

(タイトルに入れろよという話なのですが、今回は恐らく暗い内容になるかもしれないので閲覧注意です⚠️)

皆さん、深夜にこんばんは。銀ノ月です。今夜は月が綺麗ですね🌙

タイトルにもあるように、今回は少し自分の昔話をしようかと思います。
「タダでさえ気分が憂鬱な日曜日(月曜日)になんてもん投稿しちゃってくれてんだゴルァ!」と怒号が聞こえてきそうですが、この話から伝えられることが何かあるのではないかと思ったので、完全なる私のエゴですが投稿させてください🙇

今の私(銀ノ月)が皆さんからどう見られているのか分かりませんが、かつての私(小学生高学年頃がピークですね)は自己肯定感が今よりも異様に低く、人の視線を過剰に気にし、ずっと俯いて歩いているような子供でした。
特に人の視線には本当に敏感になっており、きっとその影響で今まで「ソロ活」を楽しもうという発想に至らなかったのかなとも思っております。

ですが、とある2つの要因のお陰で、私は今ではそんなに人の視線を気にならなくなりました。
先に言っておきますが、よく耳にする(?)「誰も貴方を見ていない」や「他人は貴方にそんなに興味を持っていない」といった言葉ではありません。(むしろ私は「そんなこと分かっているわ!」と思っていましたね…。)

1つは、「視力の低下」です。
今では過去の自分を地の果てまでぶっ飛ばしてやりたいと思っていますが、小学6年生頃の私は謎に「眼鏡」に憧れており、100円ショップで売られている眼鏡を買っては掛けて楽しんでいました。(尚、その眼鏡はその後すぐ何処かに消えていた模様…。)
そんな眼鏡大好きっ子だった私ですが、愚かなことに「目が悪くなりたい!」と願っており(全国の視力の低下に苦しむ皆様、本当に申し訳ございません🙇)、何の因果か本当に悪くなってしまいました…。

視力が下がってロクなことはありませんでしたが、一つだけよかったのが「人の顔が見えなくなった」ことです。
厳密にいえば「ぼやけて見えるようになった」のですが、そのお陰で他人が自分を見ているのかが分からなくなり、少しずつ視線への恐怖が薄らいでいきました。

もう1つはとある考え方(オリジナル?)です。
高校時代のある日、全てがどうでもよくなる境地に踏み込みました。(努力する意義や生きていく上での核など、割と大切なものも対象ですね)

視線への恐怖もその内の一つで、「見られていてもどうでもいい」「自分の人生に大して干渉(登場)しない人間なんざ、本当にどうでもいい」と思うようになりました。(刺々しい表現で申し訳ありません💦ですが、敢えてそのままの形で紹介させてください)
視力の低下だけでは完全に恐怖を拭えませんでしたが、このように(ある意味臨戦的に)考えることで自分の中で吹っ切れることが出来たように思います。

ここまでお見苦しい話に目を通してくださり本当にありがとうございます🙇(そして申し訳ありませんでした💦)
私が伝えたかったのは、このようにすれば視線への恐怖が薄らぐよといったことではありません。(恐怖の度合いも、それの克服も、人それぞれです)

周りの反応を気にしすぎるあまり、息が上手く出来ないように感じられている方へ。
気にするな、とは言いません。(気になるものは気になりますし、気にすることは悪いことではありませんので…。)
気にしすぎるあまり苦しくなってしまった場合、是非自分を含めた「大切にしたいもの」を心に思い浮かべてみてください。
きっとそこに「周囲の目」は入っていないのではありませんか?

star今日できたこと♪

・(時間&字数ともにカツカツになったが)今日も日記を投稿できた。
・久しぶりに活動に参加できた
・明日も負けじと頑張りたい

favorite読んでくれた人へのメッセージ

目を通してくださり、本当にありがとうございました😌(そして申し訳ありませんでした💦)
皆様にとって、明日が素敵な1日になりますように🍀(お見苦しいものを見せてしまった分、切に祈らせてもらいます🙇)

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