よしちゃんの日記『Let it be !?』
visibility103 edit2024.07.24
昨日、日記を書いた後、自分を見失いそうになった。心も落ち着かなくなった。
どうしてだろう?と自分の中を見つめてみた。
見つけた‥。そこにあったのは依存心。
僕は依存心と向き合い、そしてそれを遠ざけた。
そうすると、僕の心は落ち着きを取り戻し、同時に自分も戻ってきた。
僕は寄り添うということが分からない。寄り添うということが分からないままここに居る。
寄り添うということが分からないから、寄り添おうと思ってもそうできないし、寄り添われていたとしても、それが分からず受け取れずにいる。これまでも、僕が手にできるのは、寄り添うという名の依存と寄り添い合うという名の共依存だけだった。
だけどようやくここにきて、僕は寄り添うということを理解する準備ができた。自分を想うということを実践し、そしてその上で依存心と向き合うことで、ようやくその準備ができた。
依存するということは、都合よく相手を使うこと。頼るとか支え合うということとは全く違う。頼るとか支え合うということには、自立心が必要だ。依存だけで成立する時代は、赤ちゃん時代だけだろう。
人の体がそうであるように、自立が成り立つには自律の働きが必要だ。その働きが無ければ、ボクサーが急所にパンチを食らった時のように、立っていられなくなるだろう。
僕のその働きを支えてくたもの。それは、想うということだった。僕の心の安定は、そこに自分自身への純粋な想いがあってこそだった。
想いが心を、心が自律を、自律が自立を支えてくれる。
依存心から自立心へ。そして、自立心が寄り添うということを理解する土台を作った。
想いが変化を呼んでいる。僕はようやく、赤ちゃんを卒業する時が来たんだな。
夜中に目覚め、あれこれしてしまったせいか、今日は10時過ぎまで眠っていた。起きてからは、いつもよりは調子よく、まったく動けなくなる感じにはならなかった。
今日は久しぶりに食器用の洗剤を使った。そうすると、自分の実態を感じ、ガッカリする気持ちになった。
そういうものを使う度に、僕は多くの生き物たちの犠牲を強いた生活をしていることを感じてしまう。自分自身の保身のために、そして多くは娯楽や快楽のために、多くの犠牲をいとわない人間性を感じてしまう。
僕は、普段の自分自身の態度を反省した。他人の非を責める気持ちが出てくる自分のことを反省した。誰がどれだけ周りの迷惑を考えていなくても、誰がどれだけ周りの何かを害したとしても、僕は僕で50歩100歩。嘲笑ったり、非難する資格はない。
だから僕は、責める気持ちが出た時は、それを慈しむ気持ちに変えていけるようにと思う。もしそれができない自分だったとしても、責める気持ちだけは改めていけるようにと思う。
youtubeで長老が、『自分が正しいんだ』となっていることに自覚を持つことを意識していけば、次第にその態度は改まっていくとおっしゃられていた。他人を責める気持ちが生まれるのも、自分のことを棚に上げておきながら、自分の正しさを無自覚に握りしめているからだ。
だから僕は、感情的になった時ほど、自分の実態と自分の態度を自覚するようにして、真っ当な心へと改めていけるようにと思う。
ここではいろいろと言うけれど、さっき「赤ちゃんを卒業する時が来たんだな」と話した通り、日常の僕はとても甘えた状態だ。
いつも一人で過ごしているから、育つ要素を自分の中に育んでいく必要がある。今日1日、いろいろと過ごしている中で、そろそろ父性のようなものが必要だなと思った。母性と父性を自分の中に育んでいこう。
今日よかったこと♪
日記を書いた。
自分を見つめた。自分を想った。
いつもより作業を頑張った。
~今日の違和感~
よく、『あるがままに』という言葉を耳にすることがあります。
僕も時々使ってきました。
だけども、どうであろうが、あるがままでなかろうが、それが今のあるがままなんじゃないのかな。そう思い、それを一つ詠んでみました。
あるがまま れと いと びーと 言うけれど
言わずもがなに あるがままだよ
読んでくれた人へのメッセージ
読んでくれてありがとうございます。
昨日の日記に、共感!とか押してくれた人、ありがとうございます。
純粋に想えない時も多いけど、少しずつ想える時間を増やしていけたらいいなと思っています。
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