ゆめの日記『排除を黙認する自由とは』

1) 基本:感情の世話は「強制できない」

友達になる、深く関わる、毎日支える、みたいなのは強制できない。
これは相手の事情(余裕、トラウマ、家庭、体力)もあるし、強制した瞬間に関係が壊れるから。

2) でも「最低限の安全」は自由じゃない

ここは自由じゃない。
• いじめ・排除・無視の扇動を止める
• 露骨な仲間外れを正当化しない
• 連絡網や共同作業で不利にしない
• 悪口や噂で孤立を固定しない

“助けない自由”はあっても、“害する自由”はない。これはかなり重要。

3) 「中くらいの助け」は本来、文化(マナー)として期待されていい

法律で縛る話じゃなくて、社会の空気としてのラインね。
たとえば
• 挨拶する
• 目を合わせて会釈する
• 1分だけ声かける(「大丈夫?」じゃなくても「お疲れさま」)
• グループ作業で席を空ける、情報を渡す
• 1回だけ誘う(断られても追撃しない)

これくらいは、個人の善意というより **“社会の潤滑油”**なんよ。
これがゼロになると、社会が「孤立が増殖する仕様」になる。

4) じゃあ現実に「自由」を盾にされるのはなぜ?

多くの場合、「助けない」の裏にこれが混ざる:
• 巻き込まれたくない(自分が次に狙われる恐怖)
• 面倒・余裕がない(エネルギー不足)
• ルールがないと動けない(正解待ち)
• 孤立を“その人の性格のせい”にして安心したい(自己防衛)

だから「自由」って言葉が、**実は“保身のカバー”**として使われがち。

深い関係は自由でも、排除を放置しない責任は本来みんなにあるし、少なくとも園や学校みたいな共同体は「自由」で逃げちゃダメな領域がある。

「助けない自由」じゃなくて **“排除を黙認する自由”**になってないか、そこが争点になる。

• 「助けるかどうか」より前に
• “孤立を固定する行動をしてないか/止めてるか”
が問われる感じ。

今の園の周りの人たちって、どっち寄りに見える?
「関わらないだけ」なのか、「薄く排除に加担してる」感じなのか。

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