常識を疑う

「人との係わり」について、トラブルになり思い悩んでいる方から相談を受けることがあります。

それぞれケースは違えど、人間関係というのは、なかなか難しいと考えさせられます。ただ、それぞれのケースで共通して言えることは「固定観念」に囚われ偏った考えになってしまい、正しい判断を出来ないという事です。

世の中には「常識」と言われるモノがあります。しかし、この「常識」という言葉は、時として人それぞれ違っている場合があることを知っておくべきだと思います。

ときには、常識も疑ってみる

そんなことも必要なのかもしれません・・・。

 

では、私たちが思う「常識」とは、どのような経緯で確立されるのでしょうか?それは、「知識」と「知恵」によって確立されるものであると私は考えます。

「知識」と「知恵」

この二つは似て非なるものです。

「知識」とは、学校で教わったり、自分で学んだりして記憶にとどめたものを言います。一方の「知恵」とは、「知識」を実際の物事に生かす方法を知ることです。

私達が幸せに生きていくためには、「知識」も「知恵」も、どちらも大切なもの。どちらかに偏ってもいけない、バランスよく磨いていくことが必要なのです。

 

とんちで有名な一休和尚が、難問をいつも鮮やかに解決してみせるのも、この二つを磨いているからこそ成せる業。十分な「知識」をもち、それを臨機応変に使う方法を知ることで、人はしなやかに生きていけるものだと思います。

いまの時代、周りには多くの情報があふれています。必要とあらば、インターネットやYouTube・テレビなどの情報ソースで安易に情報取得できます。その結果、その情報を信じ、なんら疑うことなく「自分の頭で考えること」を行わずに「分かった気」になってしていまいがちです。

 

私は、学生時代「理系君」でした。算数(数学)の公式は、いわば「知識」と言えるでしょう。そして、一般的には皆さんはその公式を「まる覚え」していると思います。でももし、その覚えた公式が間違っていたら、間違って覚えてしまっていたらどうでしょう。いくらその公式にあてはめて正解を導いても、その答えは間違ったものとなってしまいます。

私は、幸いにも公式を「まる覚え」することが苦手でした。なぜそれらの公式が正しいのかいつも疑問に思い、公式が出来るまでの計算(プロセス)を必ず覚えなければ納得できませんでした。

私が思うに、この計算(プロセス)が、いわば「知恵」なのだと考えます。

なにゆえに、どうして、何が要因で、公式(知識)があるのか。そのことを理解しなければ、正しい答えは導くことが出来ないのです。

 

人の生き方も同様だと思います。自分の生き方は、自分自身で決めるもの。「生き方」のサンプル(公式)はたくさん知っていても、「自分がどう生きるか」を決めるのは、「知恵(プロセスの集大成)」があればこそ。

よく見ること。良く感じること。そして、自分の頭で考えることが大切なのです。

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