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生きる意味の悩み
1071 edit2019.11.29
もし、ここに書いてあることをなんとなくでも理解できる人がいたら、できればお話ししてみたいです。
僕が生きる意味についてある程度はっきりと考え始めたのは高校1年の頃でした。中学時代は僕は卓球少年で、月に2回ぐらいはなんらかの試合で賞を取っていましたし、全国大会でもそこそこの成果をあげたこともあります。
それで高校は、私学からスポーツ推薦の話がありましたが、周囲に勉強で行くことを勧められたのもあり、卓球をネタにした一般推薦で地元の公立の進学校に入学しました。
なぜかははっきりとはわかりませんが、高校1年のときに対人恐怖になりました。人と目が合わせられなくなったり、声がうまく出ない、口がうまく動かない、黒板を見上げることがうまくできない、廊下で人とすれ違う際恐怖でうまく歩けなくなるので腰を落として歩く、昼放課は教室にいられないので外でコンクリートの塀に石をぶつけて過ごす、など、かなり追い込まれ、心療内科に行きましたが、薬を飲むと眠気で勉強ができなくなったのですぐにやめました。
そのような中で、なぜこのような苦しみの中で受験勉強をがんばるのかを人一倍問い詰めました。入学当初からある大学を目指していたというのもあり、かなりこだわってはいましたが、世間で言われるようなそこで勉強することの価値は頭では否定し尽くしていました。結局なんのためにがんばるのかわからないままがむしゃらに自分を追い込み、一本で受験しましたが、合格通知が来た日は、僕はまったく嬉しさを感じないこと自体への悔しさのあまり家の壁にボールをぶつけていたことを記憶しています。
大学では入学当初から勉強のやる気を喪失し、塾講師のバイトとバンドのギターボーカルと卓球部を同時に始めて授業そっちのけでやっていましたが、結局最終的には卓球部一本になりました。しかし、1年からレギュラーとして試合に出ながらも、努力して勝利や達成を目指すことの意味を問い詰めていました。
1年の秋ごろ、不安発作を起こして病院に救急搬送され休学になりました。そのころ自殺念慮が生まれ、問いは努力の意味から生き続けることの意味に変わりました。哲学的な本に触れはじめたのもこの頃でした。
復学には2度失敗しましたが、足かけ3年間の休学後に学生相談の助けもあってやっと大学での生活を軌道に乗せました。しかし理系の勉強にはうんざりしており、勝手に思想系の本を読んでいました。結局、三年時に文転し、哲学のようなことをやることになりました。
しかし、生半可な学力とコミュニケーション能力とコンディションの障害も相まって、哲学の道は非常に厳しいものに感じられました。しかし哲学だけに人生の意味への希望をつないでいた当時、普通に企業に就職して働くことはほとんど考えられませんでした。
在学中は何度も調子を崩し、自殺まがいのことを繰り返し、7回の入院を経ましたが、7回目の入院からの退院時に、大学の助教に院を志望している旨を話すと、「お前では無理だ」と言われた上で、高校の教員になって自分の研究も続ける道を示唆されました。なんとか哲学に関わっていたかった自分は、その可能性を信じて留年し、1年半かけて最短で教職関連の単位をすべて取得し、倍率が例年20倍ほどになる試験も通過して卒業と同時にある公立高校の教員として働き始めました。しかしコミュニケーションに障害がある上、生徒と関わりたいのではなく教科と関わっていたかった動機の不純な自分に教師の職が務まるはずもなく、2か月にして退職に追い込まれました。
その数か月後に、周囲の勧めにより障害者雇用の経理事務の手伝いの仕事にありつき、2年間勤めました。何度も不調にはなりましたが、なぜか不調を理由に休むことはありませんでした。夜中の2時に近くの池で首を吊りかけて救急で病院にかかった翌日も出勤して不要書類をシュレッダーにかけ続けるような単純作業を何時間もこなし続けました。
しかし、2年後に遂にそこを辞めて引っ越し、ある大学の宗教学研究室の門をたたきました。そしてそこの院に入学し、宗教哲学の研究を始めました。しかし、そこでも能力の問題と障害の問題に悩まされ、半年後には休学に追い込まれました。1年後の今年10月、復学を果たしましたが、やはり同様の問題で続行することができず、10月中には再度入院を経て休学することになりました。
すべてを捨てて、この道にすべてをかけるつもりで、できればこの道の途中で死ぬぐらいのつもりで越してきたのですが、現在は退学の予定です。近ごろは周囲の勧めで、できるだけ気分転換しながら、現実的なことを考えて暮らすようにしていますし、新しく障害者雇用の事務仕事も見つけたので、それをこなしながら生きていくと思いますが、生きる意味の問いに答えることについての希望はほとんどありません。
以上が今までの経過ということになりますが、相談の直接的な内容としては、生きる意味の問いということになります。しかし、正直な話、僕はこの問題を言葉ではっきりと示す自信がありません。今までにさまざまな表現を与え、さまざまな哲学上・思想上の問題形式を借りて自分の中にあるこの要求を表現しようと試みてきましたが、正直、自分の問題にしているものに対する近い遠いを感じることはあっても、問題そのものを過不足なくはっきりと表現したものに出会わないし、自分でもはっきりと表現することができません。これは、死や罪や苦の問題でもありますが、それだけの話でもありません。価値や意味と言えばまあそれらしいし、実際僕は自身の問いや要求を「生きる意味」という言葉のもとで表現しているわけですが、一般に巷で言われる答えがこの要求を満たすことはないし、これが事実だったら満たされるかな、と多少思われるようなことはたいてい信じるに値するものではありません。
言ってみれば、自己と世界が根源から否定されているという感覚です。これは少なくとも僕の中には常に存在していて、いつでも意識しようと思えばすることができます。この否定を肯定に反転するための道を、僕はニヒリズムの超克といった思想に沿って明らかにしようとしてきましたが、結局問いの回りをぐるぐると回るばかりで、なにも、僕の要求に対する、実感のある答えは得られませんでした。
現在、僕は生きる意味を追究するための道を見失っています。上記の意味で生きることに意味がないということは、僕にとって絶望的なことであり、僕は、生きることの意味を知るためなら死んでもいいと思い続けてきました。ある瞑想の合宿を周囲の制止によって断念したころから、生の意味を知ることと人との関わりを天秤にかけた際に、自分の中では、後者の、他者への現実的な応答責任が優位にあるということを自覚し始めました。しかし、人との関わりは、愛といったものも含めて、それ自体としては、僕の求める生きることの意味の答えそれ自体にはなりえません。宗教哲学研究には、答えを期待しながら、結局続けることができず、しかもやっているときには、自分が追究したいものに近づいている実感はほとんどありませんでした。泊まり込みで坐禅もやりましたが、これはこれで大変であり続いていません。
まだ努力が足りないと言えばそういう面もあるでしょう。哲学・思想をそもそも理解できていない、読めていないとか、実践的な身体的行にしてもやり込みが足りない、理解が足りないと言われればそうなのかもしれません。しかし、少しかじった身から言うならば、これらをやることにおいて自分の求めるものに近づいている実感はほとんどまったくありませんでした。
元は、これらの道を歩んだと思われる先人・先哲の言葉の中に、彼らが自分の求めているものを得ているのではないかという予感を持ったのが、彼らの後を追ってみようとした、ことの始まりでした。そのなかで多大な苦労を経験し、その中で思うことの変化もありましたが、根本的な要求に関しては満たされることはありませんでした。
宗教哲学研究の道をドロップアウトした今、自分は新たな道を切実に求めています。しかし、その道がまったくどこにも見当たりません。
そこで、もし同じようなことに悩んだことのある人がいたら、意見をうかがってみたいと思いました。
参考資料として普段書いている日記のURLを貼りたかったですが、投稿規約に反するようなので控えることにします。
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