ちーの日記『父のいいところ。』
visibility76 edit2024.02.01
よく父はパッと外出しては私に必要な物を買ってきてくれました。新聞配達用のスーパーカブ(自称ロールスロイス)にまたがって。
私と母が猛烈なケンカをすると(日常茶飯事)カブに乗って出ていき、ほとぼりが冷めたタイミングで帰ってきて「ほれ、仲直り」とポッキーを渡してくれました。
昨日悪いところばかり書いてしまったので、今日は父の沢山あるいいところを書こうと思います。
父は「立ちしょんべんがつららになる」中国ハルビン(当時満州)生まれ。高卒で郵便局に就職して以来、喫茶店、新聞配達、集金、警備員、と、天候に左右される仕事ばかりしてきました。
とにかく常に笑顔で(戒名つける時に『笑』という字を入れるようお願いしました)、従姉に「怒られたことあるの❓」と言われるくらい。後ろ姿でもわかるくらい笑いじわがくっきり刻まれてました。
口癖のように「ハピネスハピネス、よろずハピネス」と謎の呪文を唱えて泣いてる私をなだめてくれました。
自己肯定心の低い、低すぎる私の事はほぼ肯定してくれました。
小学生の時浅草に行き、父は私にお金を渡して花やしきで遊んでるよう、父は馬券を買いに。待ち合わせは出入口。
ところが出入口は2つあったんです。私は『あのアトラクションが見える出入口』と把握してましたが、父は出入口は一つだと思っており…迷子に。
「俺はあのとき子供の事は絶対に信じなきゃいけないなと思ったんだ」
と言ってました。
私が専門学校をやめたいと言った時はさすがに怒りましたが、仕方ないと諦め、特に働けとも言ってこなかったです(一度ハローワークに連れてかれましたが特に強制されることもなく)。
そんな私がうつ病(当時)に。父は差別意識が強い人だったので(差別対象は女性、障害者、外国人…)、自分の娘が精神障害者…受け入れ難かったようです。
「頑張れ…って言っちゃいけないのか。難しいなぁ」
「ずいぶん薬飲むんだなぁ。大丈夫か❓」(大丈夫じゃなかった)
と悩みながら受け入れてくれたようです。
転院先で自立支援制度の事を教えてもらった時は「『自立』ってのがいいなぁ!」と喜んでました。嫁にも行かずメンタル病んでる一人娘の行く末が心配だったんですね。
私が就労移行支援施設に通うようになった頃。ネットで知り合った男友達と日帰り旅行に行って父の好きなわさび漬けを買って帰ったその日でした。
「それ俺食えねぇわ。大腸がんだってよ…」
仕事中クラクラするから熱中症かと思ってかかりつけの町医者に行ったら、貧血と診断されたそうです。
それからは私が「ただいま~」と帰宅すると父の「おかえり~」という穏やかな声が返ってきました。
けれど、私が仕事先から帰宅する姿を見せられない内に父は逝ってしまいました。
施設に「昨夜父が亡くなったのでしばらく休みます」と電話したとき電話に出たのは当時の担当さんで、明らかに戸惑ってました。
保険会社を定年退職後、喫茶店時代の常連さんが大学の同窓会を開いたとき、父が招待されました。「僕らの青春はマスターのナポリタンなしでは語れない」と。
照れくさそうに出ていきました。
その後もう一度あのナポリタンが食べたいと父に頼みましたが、もうフライパンを握る力もなくしていました。
あぁ、書ききれないやぁ。字数いっぱいです。
今日よかったこと♪
今日は本当にメイク捗った! アイラインキレイに引けた! 誰にもわからないだろうけど自分が良ければそれでよし。
父のいいところいっぱいあったねぇ。パパっこだったからねぇ。また書こうねぇ。
今日のお弁当は昨日作ったサツマイモご飯! 美味しかったね。わっしょい❣🔥
読んでくれた人へのメッセージ
ささやかに生きた爺さんのエピソードですがお読みくださり有難うございました。
きっと両親は戸惑いながら必死に私を育ててくれてたんだと今はわかります。
今、子育て中の方、きっと想像を絶する大変さだと思いますが、いつかきっとお子さんに通じます。大きくなってく背中を見守ってあげてください。
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