被害妄想とうまく付き合うための考え方
visibility26 edit2025.10.18

「被害妄想」と聞くと、病気のような重い印象を受けるかもしれません。
けれど、実は誰の心にも少しはあるものなんです。
人間関係のすれ違いや、悩みごとの多くには、この“ちょっとした被害妄想”が関わっていることがよくあります。
なぜなら、私たちは周りの出来事を感じ取るとき、無意識のうちに“自分の価値観や気分に基づいた予測”をしてしまうからです。
たとえば、向こうから歩いてくる二人のうちの一人と目が合い、その直後に二人が笑っていたとします。
心が穏やかな時は、「きっと楽しい話をしてたんだな」と気にも留めないか、そもそも気づきません。
でも、自分に自信が無かったり、悩んでいて気持ちが弱っているときは、「今の笑いは自分のことじゃないか?」と、つい不安に思ってしまうことがあります。
けれど、実際のところ、その二人がなぜ笑ったのかは、本人たちに聞いてみないと分かりません。
つまり、目や耳で感じた出来事に、自分の想像で意味をつけても仕方がないのです。
仮に本当に自分のことを笑っていたとしても、その可能性についてあれこれ邪推して心を痛めるのはもったいない話です。
相手が実際に危害を加えてくるのでなければ、自分の想像だけで傷つくのは“自分で自分を苦しめてしまう”ことになります。
仏教の教えでは、これを“自縄自縛(じじょうじばく)”といいます。
自分のまわしを取って一人相撲し、自爆しているんですね。
じゃあ、私たちはどうしたらこの厄介な被害妄想と付き合うことができるのでしょうか?
仏教の教えの視点から、できるだけ分かりやすくご紹介してみたいと思います。
無常無我(むじょうむが)の視点で物事を捉える
無常無我と聞くと、いきなり難しく感じたかもしれません。でも、簡単なんですよ!
“すべては変わるし(無常)、固定した自分はいない(無我)”
つまり、、、
起きたことに囚われてもしょうがないし、”私は被害を受けた”と考えることにも意味がない
「いやいや、そんな簡単にはそうは思えないでしょ!」
そういう声が聞こえてきそうです笑
でも、仏教の教えとは、まさにこのことに集約されていると言っても過言ではないんですね。
苦しみや悩みは、「自己への執着から生まれる」ということです。
私たちは、「自分はこういう人間だ」と思い込んだり、「人からこう見られたい」と願ったりします。
でも、そうした思い込みや欲求こそが、心を苦しめる原因になるのです。
自分の性格や人間性を正確に説明できる人なんていません。
当たらずとも遠からずな説明はできるかもしれませんが、完全に自己の本質を理解した認識を持っている人はいません。
本当の意味で“自分の本質”を見抜いているのは、仏教でいう悟りを開いたごくわずかな人だけでしょう。
だからこそ、私たちは「自分はこんな人間だ」と決めつけすぎない方がいいのです。
むしろ、「自分のことを思っているほど分かっていないかもしれない」と思っていたほうが、心はずっと自由になります。
そういう心で生きていれば、たとえば道で二人が笑っているのを見かけても、「自分のことを笑ったのかな」と考える代わりに、ただ“一陣の風が通り過ぎた”くらいに受け流せるようになるでしょう。
むしろ、自分は風のような存在だ、と思って、周囲の影響を爽やかに躱していく気持ちで生活してみるのはいかがでしょうか?🍃
何か、人生の参考になれば嬉しいです☺️
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