てこの日記『春耕秋収 - 其の十六 冬土用と晦日』

今宵は、九月の晦日。旧暦では、七、八、九月は秋とされる。十五夜が真ん中の秋であるので中秋の名月と呼ばれることからなんとなく知れよう。そして九月の後の月(十三夜)、また七月の「伝統的な七夕」と、秋は空と宵に親しむ時節らしいと勝手に思う。
とはいえ晦日、月の出は早朝で、月の入は夕刻。夜の散策に出ても月をともにすることはない。街灯りが少ない場所なれば星月夜ともなろうが、この地ではそれを見ることは叶わない。

さて、人仕事終えて夕刻。薄灯りが残っているうちに散策に出たが、程なく街は宵闇に沈んだ。さして遅い時間でもないのに……。
いつしか季節が進んだことを思い知らされる。そう秋土用の只中でもある。土用は立春、立夏、立秋、立冬の前の18日間を言う。夏土用の印象があるのは、平賀源内の「うなぎ」の件があるからだろう。けれど秋土用の季節が、なんとなく季節の変わり目を強く印象づける。おそらくは能動的な人たちは陽気が良くなるにつれ、さらに気力が満ちてくるのだろう。秋土用は、なんとなく冬ごもり前を想起させ、心よわい自分のあるがままでいいのだと、強がりや無理をせずとも。そうした安堵があるように思え、さらに単に心よわさだけでなく、やがてくる暖かな季節までの助走な気がする。

街灯りが照らす夜道で暗い夜空を時折見上げ、感傷的なのかそんなことを思いつつ、ひたすら歩みを進めた。
感傷と裏腹に身体的な調子は良かったようで、わりと順調に歩めた。
いつもの散策路であるが、ところどころ護岸工事があって川べりを行けないところがある。しばらくは、この道のりを行くとこうした様子となるようだ。とはいえ、多くはいつもながらの川べりの道ではあるのだが。

そして、またいつもの休息所。思いの外、早めに着く。堤上から河の流れを眺めると、穏やかに見える。晦日なので朔に近く、干潮の時刻に程なくなるようなので穏やかに見えるのだろうか。暗い夜空と穏やかながらゆっくりと流れるそれをしばらく見ていた。長居はしない、歩いている時は体が火照っているような感じもした。風も穏やかで寒さもなかったが、やはりじっとしていると少し肌寒さを感じた。
ほんの少しの、いろいろな感覚が秋の終わりを告げている。

海まで出て帰路につく。河口まで戻ってきたところで、風が頬をなでる。そろそろ冷たさを感じても良い時期だが、季節の進みが遅れているせいか、歩き疲れた身には心地よささえ感じる。とはいえ、ゆっくりと確実に季節は移ろうのが知れる。

そして月こそ違えど、旧暦も新暦も明日から一日。けして能動的にとはならないのだが、新たな月に、弱さを抱えたままでも何か変われることがあるのではと。
変わらぬ景色をみながら、その何かを見据えていたような散策だった。

ログインするとこの日記をフォローして応援できます

keyboard_arrow_up