てこの日記『春耕秋収 - 其の十七 彼岸と此岸』

日本の人の多くは、自身は無宗教であるという。私も同様だと思う。

日々の忙しい時を過ごす中で、時折する夜の散策。季節の移ろいを夜空や風を感じて歩く。
ひととき、普段と違った時間を過ごすことで、非日常をあじわっているのかも。
だから、無宗教であるが故に、彼岸というより、春分点、秋分点などと自然摂理のなかの太陽黄経0度、180度など理屈のようなことをいう。

とはいえ、夜空の月を眺めては満ち欠けや、雲間のおぼろに見えるそれを見たり、二十三夜待ちなどをする。
それは、ある程度の距離を歩くが故の、ついでであることがほとんどである。けれど忙しさを忘れ、夜空を眺める先に単に現世的なことを忘れる以外に何か想いがなかったろうか。
勢至菩薩は月待ちでは『二十三夜講』の本尊であり、月読命(つくよみのみこと)など月の神さまの本地仏とされてる。また勢至菩薩は智慧の光で衆生を照らし迷いを消し去る菩薩であるという。この智慧というのは、単なる知識や利口さではなく、真理を見抜き、物事の本質を理解する「見通す働き」だという。この智慧は、経験を通じて得る「気づき」であると……。
小賢しい知識や迷いではなく、此岸にても「智慧」得て生きることは大切と思う。

冒頭で無宗教でといいつつ、やや宗教じみた話となった。先週末が「彼岸開け」であったこと、そして秋分は知ってのとおり昼間と夜間の時間が同じになるということ、神道的には人の時と神々の時間が一緒であるとか、仏教的には西方に浄土があり、日が真西に沈むので彼の岸を照らすということらしい。
無宗教を自認していても、多少なりとも時間があれば、先祖の墓参りくらいはするのではなかろうか。
多かれ少なかれ、そうした行為を行うのは、単に儀礼だけでなく想いでもあるのだと。

どちらの比重が高いのであろうか。自然の摂理としての秋分。亡くなられた親・先祖の想いを再確認する彼岸。
ともあれ、宗教の教義に乏しくとも、そうした季節の移ろいの中、煩悩に満ちた、私たちが生きる「この世」(此岸)において、自然であるのか、思念であるのか不明だが、生きる中の迷いを含め何かの希望を探すきっかけとなる期間でもあるのだろうと。

年齢的に仮に人生100年という時代だとしても折り返しを、とおに過ぎた身には残りの人生をも悔いなく過ごしたいと思ったりするもの。
自然摂理などとの方がある意味自らを偽って科学的、現世的と唱えてるだけで、実際には自分だけでは、なんともしがたい何かがあって、その中で単なる祈りとも違う想い、そうした想いの方が実は本質的であったりするのでは。
だから、そういうことを立ち止まって思考することも、馬鹿げた話ではないのかもと思うのだ。

若い方々は、そういう境地にはまだ至らないとは思うのだが、そうした現象としてのそれと、否定し続けたわけでもないが、ある意味非科学的な想い。
それらが交錯して、少し彼の岸に向けて進む道に迷いなしと思う期間があってもいいのだと今年は考えてみた。

曼珠沙華 ひたくれないゐに
  咲き騒(そ)めく 野を朗かに秋の吹く    伊藤 佐千夫

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