違和感を覚えた日本語
visibility1,297 edit2017.05.03
先日、遅刻したのに謝らない職場の人にイラっとした際、周りの人に『謝らせたいの?』と言われたことに関して、もう1つ感じたことがある。
これは謝罪だけでなく、感謝とかもそうなのだけど、
「あやまらせる」
「感謝される」
なんか変…させるって…?
そもそも、こんな日本語ってあるのかな?
常識だの礼儀だのマナーだのの話にも突っ込むかもしれない。
でもなんか、押し付けっぽい感じがする…。
常識を知らない人を叱って、その人に「あやまらせる」とかありそうなんだけれども…
なんだけど、違和感の正体を考えてみると、あくまで私の価値観でしかないのだけど。
感謝や謝罪に『させる』ってつけるべきではなくて、これらは『自然に出てくるものでやらされるものではない』ということ。
植物が芽吹くのを、『芽ぶかせる』なんて言わない。
ありがとう、申し訳ない、は本人がそう思えば口に出す。
その場の雰囲気で、言わされることもあるかもしれない。
それでも、言わせるっていうのは、その人の心からの気持ちではない見せかけのもの。
そんなものを私は貰っても嬉しくないし、そんな礼儀や気遣いだと思えない気遣いはいらない。
私は遅刻した人に、『あやまらせたい』なんて思わなかった。
申し訳ないという気持ちがないなら、別に謝罪はいらない。
でも、言わないことも、そーゆーこともあるんだと思えなかったし、尚且つ『あやまらせたい』という、『あなたは無理にあの人に謝らせるということをしたいのですか?』みたいな否定的な意見みたいな、圧力みたいなものが、とても嫌だった。
社会は多数決のところが大きい。
私以外のそこにいた全員が、『いや、あーゆー人だし謝らなくていいでしょ』と思うなら、私だけが違う者だ。
そーゆー意見もあるよね。
そんな言葉はどこからも来ない。
何か1つの答えしか出ない。多様性などはなくて、変わった意見を出す私は、常に変な人だ。
それで笑いを取れることもあれば、1人で違和感を覚えて孤独を覚えてかなしくなることもある。
少し脱線したけど、最近感じた違和感をなんとなく分析して、書いてみた。
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