理由を言えない子供達

「甘やかしてばかりじゃだめですよ。厳しくする時は厳しくしないと」これは、娘が中学1年生の時に学校の教頭先生から言われた言葉です。さらに、「これ以上休むと高校の推薦はできません」とも言われました。でもその頃の私たちは、高校のことなんて、まだ考えてもいませんでした。ただ一つ、「どうしたらまた学校に行けるようになるのか」それだけで精一杯でした。

不登校の子どもに対して、「なぜ行けないのか」と理由を求められることがあります。でも、本当に苦しんでいる子ほど、その理由を言葉にすることができません。もし本人が理由や原因が何かをわかり言葉にできるなら、きっともう解決に向かっているはずだからです。

当時、私は感じていました。学校は、娘が学校に行けない理由を本当の意味で考えようとしていなかったのではないかと。原因は本人か家庭にある。あるいは、わがままだったり、怠けていて行けない。そんなふうに捉えられていたように思います。そして子どもはとても敏感です。

「わかろうとしてもらえていない」「ここでは安心して話せない」そういう空気を感じ取ると、だんだん何も言えなくなっていきます。そして、心を閉じ、「行かない」という選択をするようになります。

不登校は、本人や家庭だけの問題ではありません。言葉にできない心の奥にあるものに、大人がどれだけ寄り添えるか。そこに、本当の意味があるのではないかと、今は感じています。

あの頃の娘は、「理由がわからないまま苦しんでいた子ども」でした。そしてそれは、決して特別なことではないと思っています。今元気に休まず通っていても、ある日、誰でも不登校になりえます。誰にでも起こる事です。

もし今、不登校に苦しんでいる子どもがいて、どう関わればいいのか悩んでいる大人がいるのなら、「理由を聞くこと」よりも、「そのままの気持ちに寄り添うこと」を大切にしてほしいと願っています。もし、現在不登校中でも人生は長いです。焦らずに。

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コメント一覧

全2件
  1. schedule2026.04.11

    くうちゃん

    コメントありがとうございます。
    とても考えられたご意見だと思います。
    ただ、「寄り添う=肯定=甘やかし」と捉えられている点には、少し違和感があります。
    私が書いた「寄り添う」は、
    不快な感情をそのまま固定したり、外に原因を求め続けることではなく、
    「言葉にできない苦しさを、そのまま受け止めること」です。
    理由を言えない子どもに対して、
    最初から「自分で管理する力」や「原因の特定」を求めることは、
    かえって心を閉じさせてしまうことも少なくありません。
    安心できない状態では、人は自分の内側にも向き合えません。

    そして私は、「学校に行くことだけがすべてではない」と考えています。
    もちろん一般的には、義務教育もあり学校に行くことが当たり前とされますが、本当に大切なのは、その子がこの先の長い人生の中で、自分の可能性を伸ばし、自分の望む生き方を選べるようになることだと思っています。
    不登校の今という時間も、その子の人生の一部です。
    だからこそ、今の状態のまま放っておくのではなく、その子が自分と向き合い、これからの選択をしていけるように、大人が関わっていく必要があると感じています。
    そのためにも私は、まず受け止めること(寄り添い)があり、その先に、心との向き合い方や選択を育てていく、
    という順番が大切だと考えています。
    また、「理解は不可能」という前提についても、完全に同じになることはできなくても、理解しようとする姿勢そのものが、子どもにとっては大きな意味を持つと感じています。

    現場では、その積み重ねによって、
    少しずつ自分の気持ちを言葉にできるようになる子どもたちを、実際に見てきました。

    貴重なご意見をありがとうございました。

  2. schedule2026.04.11

    さとる

    人の心は感覚に執着することで生きています。

    その感覚は快楽か不快か、または何も感じないかです。

    そうして、学校生活にあるとき不快を感じる子がいます。
    不快に傾いたまま、その気持ちが大きくなっていくとその子は学校は不快だ、だから行かないという決定を下します。

    さて、ここで『不快な気持ちに寄り添うのは正しいのか?』という問題が起こります。

    私の答えはNOです。『寄り添う』という言葉が私は罠だとも感じます。

    そもそも、寄り添うとはなんでしょうか。
    私はそこに肯定するという意味も含まれていると感じます。

    万人が使う寄り添うという言葉の意味や行動が、どんな意味になるか。

    ある人は寄り添うを受け容れること、一緒になることだと思うとします。

    すると、自分の不快な感情を周りの大人が慰めるように肯定することは、子供の自尊心を時に傷つけ「自分はダメな人間だ」と惨めにさせたり、「こんな自分はおかしい」と思わせたり、あるいは「学校がいけない」「友達がいけない」「自分に不快な思いをさせる奴・物」がいけないとその子は社会からどんどん外側に向かいます。

    なぜなら、不快とは主観的な心の反応だからです。
    そうやって周囲や自分を問題の対象にすり替えてしまうと、大人が寄り添ったことは百害あって一利なしという結果になりかねません。

    寄り添うという言葉は私は肯定と捉えました。理解し、肯定する。
    だから寄り添うという『ぴったりとそばへ寄る』という意味が広辞苑の意味で行えると思うのです。

    ここで感じる私の理解の罠についてお話します。
    他人の感情を自分の感情のように錯覚することは可能ですが、本当に理解することは不可能です。

    なぜならある刺激に対して、それと同じ刺激を感じるということは自分の感覚(イメージ)を利用する以外に手段がないからです。

    ですから、私は寄り添うという手段でその子とぴったり同じ感情になったと錯覚したところでその子が救われるとは微塵も感じません。

    子供はそれを感じ取ります。
    この人は表面上だけ同調していると思います。
    なぜなら最終的には学校にいけるようになることを喜ぶ存在だからです。
    そのくらいは子供は見抜いてきます。

    だから本気で寄り添うことで子供は学校にいけるようになるという気持ちを持って、何か言ってるとしたらその人の言葉は子供は馬鹿にするだろうと思います。

    不登校になるという問題の根本は子供が自分の心を自分で管理する術を知らないという不幸から起きている問題だと思っています。

    なぜ人の心は大人になるまで大人が管理するのですか?
    そんなわけないと思います。

    不快という感覚から守ら続けて、対処を知らない人間から育てられた子供は不快は遠ざける以外に対抗する手段を知らない。

    だから、不登校なのだと思うのです。
    それはもう、本人の意思と無関係に心の教育に失敗した結果の具象化であり、これから改善するなどという流暢な問題ではないと私は思うのです。

    だから、根本原因をまず探してみてはどうでしょうか。
    不登校になった子供を発見して議論するのはカビ菌を知らずにカビを除去しているようなものではないでしょうか。

    不登校の子供たちを本当の意味で助けられるのはそういうのを理解した大人たちだと思います。

    自分が良い気持ちで接しているから相手が治るはずというのは錯覚以外の何物でもありません。
    それに大抵の大人は理解できないけど、と心の中で思いながら寄り添うことになると思います。
    あなたの気持ちは100%分かるという親や大人がいたら気持ちが悪いと思います。
    寄り添うこととは本当に良いことでしょうか。

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