ごりらの日記

実家で母と話しているとよく「会話に飢えてるからね」という言葉が出てくる。
自分の家族にはあまり友達と定期的にあって話すといった概念はなく、基本的に家にいることが多いインドア家族なので、そう言われても納得の環境ではあるのだが、
日常であまり人と話すことのない自分から考えてみても、あまり会話に飢えていると感じたことはここ最近ない。

そもそも友達も少なく、雑談できる機会もないに等しいのにも関わらず、会話にすることに対して飢えているような感覚を覚えた事はあまりないように思う。
会話に飢えているとはどのような事を言うのだろうか。

確かに話したいという思いが今まであったかと言われれば、もちろんあったと思うが、飢えとは違って、いつも付きまとうような感じではなかった。
「もう爆発しそうだから、一刻も早く何とかしなくては」という不安感から話したいということは思ったが、会話そのものに向かうのはどういう事なのだろうと思う。

またある意味それは、自分たちがいつも会話している事が、どういう事なのかという話なのかもしれない。
会話することで自分たちは何か充足させているものがあるのだろうか。それは「こころ」というものなのだろうか、それとも、ただの反応として身体が落ち着くのだろうか。

何か実のある話が会話の中にある訳でもないのに、話したいと思うのだから、会話している所に何かがあるのだと勝手に思うけれど、これを簡単に認知の話として終わらせてしまうのは、あまり面白味がないから、もう少し考えてみようと思う。

会話している時に起こっている事とは何だろうか。意思疎通、意見交換、先に言った認知の話、どれもどれで説明出来てしまいそうな気がするけど、実際聞きたいのは、明確な目的に基づいた説明ではなくて、自分たちの意識とは離れた所にある現象の話だったりする。

何が起きているのか、これは文学的にも、神秘的にも、詩的にも説明されて構わないのだけど、ひとつは納得のいくもので終わったらいいなと思う。たとえそれが身体的な言葉であったとしても、まさに「こころ」に残るものであれば、調べる活力になるから、なるべくそうであって欲しいと思う。

表紙に難解な専門用語が書かれた専門書のような雰囲気のものでは、どうしても自分ひとりでは読み解けなくて、誰かの力を借りたくなってしまうので、みんなに開かれたものであれば、尚のこと嬉しいなと思う。

漫画ほど砕けた感じではもしかしたら真剣になれないかもしれないから、誰か偉人の自伝くらいの感じで、ひとりひとりに結び付けることの出来るひとつの物語であったらいいなと思う。
ウォルトディズニーでも、宮崎駿でもいいから、そんな感じのものがあれば、自分のような小難しい事が苦手な人間でも、楽しく考えられるのになと思った一日だった。

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