ごりらの日記『寂しさと自分たちの性質』

今日は久しぶりに寂しさを覚えたので、そのことについて書きたいと思う。
寂しさ、またはそれを孤独感と同じ言葉だと言う時に、それは一体何なんだろうと思う。
今日に限っては、寂しさを感じる前から「あ、今日なんか来そうな気がする」と思った。
まるで天気が良いのにも関わらず、突然冷たい風が吹いて来て、「これから雨が降りそうだな」と思うことに似ていると思う。

実際その後、心にぽっかり穴が空いたような、胸の苦しくなる思いがした。
その時には、とにかくそれを「寂しさ」と呼ぶことにして、脱出しようと思ったが、いつものことでえらく時間が掛かった。
そういう時にはだいたい茶の間で、録画していた番組を見る。
主にNHKの教育テレビを録画しているので、それを漁る。
今日は、先日やっていたヴィクトール・フランクルの特集を見た。
ユダヤ人の精神科医で、ナチスドイツによって絶滅収容所に入れられたこともある人物。
その時に、奥さんや両親も失ってしまったと著書で語られていたと思う。
その番組を見ている内に、少し落ち着いて来たので、部屋に戻って寂しさについて考えることにした。

いつも思うのは、納得できる孤独の時には、自分の意識はもっとも静かなのに、そこから外れた孤独に対して、納得できないという時に、内側からざわざわと騒ぎ立てるものがある。
もっと言えば、訴え出るようなもの。
出川ではないけど、身体が「やばいよ、やばいよ」と言っている感覚がして、それに「何にもやばくないよ…」と言い聞かせるのがいつもの流れなのだ。

ただそれを何かの警報装置の誤作動のようなものだと一蹴しても、時々、本当にそれで死んでしまうんじゃないかと思ったりする。
ある時に、そう思って、椅子に座って悶えていた時に「なら、実際に死んでしまえばいい」と思い至って、そのままベッドに入って寝たことがある。すると翌日、何事も無かったかのように目が覚めて「なんだ死なないじゃないか」と吐き捨てたことがあった。
思い返すと暴力的過ぎて自慢できた話じゃないが、「やばいよ」という時に身体に言い聞かす流れを作るきっかけ程度にはなったとは思う。

もし、寂しさまたは、孤独というものがただの反応でしかなくて、ずっとそうであることを言い聞かせ続けるしかないとして、自分は他の誰かが、その人の認識で、寂しさや孤独を捉えることの方がずっと豊かな気がする。苦い思いでも何にしても、誰一人同じだとは言い切れないから、「私は私の立場で、このように捉えている」という方が、他の人のためになるかもしれないし、何よりそれが本当に価値ある事なんだと思う。

自分たちひとりひとりが個別であること、唯一性を持つことは、時に寂しい事なのかもしれないけど、それによって、一部の人に当てはまる方法論を見つけることよりもっと豊かな、ひとりひとりに合ったやり方が見つけられるという性質が備えられているということだと思う。

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