『歴史フォーカス 其の壱』

しかみ像

今放送されている今年の大河ドラマ「どうする家康」その家康公が生涯で死の覚悟すらした戦、三方ヶ原の戦い、この戦いで家康公は大敗を喫し命からがら浜松の城に逃げ帰るのですが、家康公はこの時の出来事を忘れぬ為の戒めとして、くやしさ溢れる自分の肖像画を絵師に描かせました、それが有名なしかみ像と言われています。

負けより学ぶ

今年の高校野球で準優勝したI高校のS監督がドキュメンタリー番組で言っていた言葉で「やっぱり勝ちより負けの方が得るものが多いな」と言っていたのが自分は印象的で、この言葉を家康公に当てはめると、三方ヶ原で負けはしたが得る物が大いにあったのではないか、そうでなければ最大のライバルであった豊臣秀吉公に小牧・長久手の戦いで勝利する事は出来なかったのではないか自分はそう思う。

ただこの時家康公は戦に勝ったが政治的には負けてしまい結局は秀吉公に臣下の礼を取る事に。

そして鳴くまで待とうの言葉通り自分に天下取りのチャンスが来るのをじっと待つのだが、元来短期な性格の家康公はこの時よく辛抱出来たのは、三方ヶ原の時家臣の諌めも聞かず武田軍に戦をしかけ大惨敗をした時の事を家康公は頭にあり臣従の道を選んだのではないだろうか。

そして泰平の世に

臣従をしていた秀吉公が亡くなり豊臣政権の重鎮、前田利家公も秀吉公の後を追うように亡くなった今、家康公に対抗しうる実力者は既に無くこの時がチャンスとばかりに家康公は天下取りに乗り出します。

自分が望む泰平の世を築く為、権謀術数あらゆる手段を用いて天下を手中にしようとします。

その為人には不義理と呼ばれるような事もお構い無しで、豊臣政権を利用し天下分け目の大戦、関ヶ原の戦いを起こし勝利します。

そして征夷大将軍となり江戸に幕府を開き応仁の乱より続く戦乱の世を終わらせ260年に渡る泰平の世を創出したのです。

まとめ

家康公のターニングポイントとなった三方ヶ原、あの時兵力に勝る武田軍に戦を仕掛けた家康公、武田軍の背後を突くとは言え世に名の聞こえた武田軍に戦いを挑む事に躊躇や恐れは無かったのか、コラムを書きながら自分は思ったのですが、元来短期な性格であった事や30歳という若年で戦国大名としての経験が乏しかった事様々思いついたのですが、兎に角家康公は負けを失敗を恐れずに強敵に立ち向かっていった。

そして敗れた‥だが敗れたが故に得る物もあった、それが260年続く泰平の世の礎となったのなら負けは決して恥ずべきものでは無いのではないでしょうか。

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