【愛されたい】と認めたくない

こんにちは、キュウです。

今日は、愛されたいという欲求が自分にあることと、それを認めたくない自分がいることに気がついたお話です。すべてが推測でしかないけれど、いつものように、なるべく心にしっくり来る表現をじっくり選びながら書いてみたいと思います。

よろしければ、お付き合いください(*´-`)

愛されないことが恐怖

私は、自分の意識のなかではあまり愛されたいと思っていません。愛されなくてもいいから、まずは愛したいという気持ちが強いです。本当は愛されない・そんな価値は無いはずの自分が、なんの偶然か、今までたくさんの人達から愛を受け取ってきたので、そうして自分が受け取ってきたたくさんの愛による色々な心の変化を今満たされていない人たちにも知ってほしいという気持ちでいろんな事をしてきたつもりです。(そして、それにより色んな人を傷付ける結果になったこともあり、愛するのが怖くなったこともあります)

でも、実は、私の深層心理の中ではそうではなく、私の気付かない無意識の世界では、私はとても愛されたがっていたのではないか?ということを、最近自覚しました。

私はきっと、誰かに愛されないのが怖いんです。この間【自己開示の本当の気持ち】というブログを書いてから、その怖さに改めて気が付きました。

今まで【愛されるより愛する方が幸せ】だと思っていたのは、本当は愛する事で愛が返ってきて愛されることを喜びとしているのに、今までの経験から、それが帰ってこなくて傷付いたときのダメージが恐ろしくなり、それに対する心の防衛反応として【愛されなくてもいい、そこまで愛されたくない】という意識を持つことにしていただけかもしれなくて、それは結局愛されたいという欲求が自分にあるということだと思います。

【愛されたいし、愛してる】の方が、無意識の世界の表現としては正確なのかもしれません。(でも、意識の中では【そこまで愛されたくない】【愛されるより愛する方が幸せ】だと思いながら行動しています。)

その証拠?として、自分が愛しただけの愛を相手からもらえないと、「それでもいい」と頭では思っていて寛容と我慢を注ぎ続けても、心のどこかでは満たされず苦しいと感じている部分があったのかもしれないことに気づきました。しかも、その「苦しい」は【愛されなくてもいい】という意識によって「私は今、愛したいように人を愛しているのだから苦しくなるはずはない」という風に無かったことにされてしまい、自分でもわからないうちに心が我慢を続けているのです。しかも、その「我慢」は「いつか報われる」というなんの保証もない思い込みにより、長くながーく続いてしまいます。そうして、知らず知らずのうちにだんだん自分の心が壊れていくのかもしれません。特に、親との関係が苦しいときにハマってたループがそうでした。

この流れは私の意識の中では全く気付いていなかったことで、それでいて、無意識の世界ではよく感じていたことでした。

私の頭は、私の無意識の心の欲求がこんなに愛し、愛されたがっていることを、全くもって知りませんでした。

(このブログでは、【意識の中の世界】を【意識】とか【頭】とか【理性】とか【考え】とか表現するのに対し、【無意識の世界(深層心理とでも言うのかな?)】を【無意識】とか【心】とか【欲求】とか【感情】とか表現することにします。)

自己肯定感の低さ

以前の、自己肯定感が低すぎた私は、他者に肯定してもらうことでしか自分の価値を感じられなかったのかもしれません。また、今もまだそういう部分があると思います。今は以前よりも大分自己肯定感があるようになったとはいえ、まだ自分の事を自分で信頼しきれていない部分は多いんだと思います。

以前は、自分のことを信用できなさすぎて、自分の感覚を信じることもできなければ自分の無意識に目を向けることもなく、ただ【人の考え】や、【人から言われたこと】の方が正しいと信じるばかり。それなのに、人の言うことはコロコロ変わり、人が違えば言うことも違い、何を信じて生きたらいいのかわからず混乱する始末。色々な答えや確かなことは、本当は全部自分の中に眠っていたはずなのに【ダメな私の思うことだから、それが正しいはずがない】と、ないがしろにすることで、余計に混乱してしまっていたのでした。

それ故に、以前の自分は人に過剰に尽くしすぎることでなんとか自分の生きる意味を保とうと必死になっていたのかもしれません。自己犠牲的な愛を信じていたと思っていた私は、単に自らの自己肯定感の低さを補うための心の防衛反応に素直に従っていただけなのかも。

つまり、今までの私は【他人のため】と思って行動していながら、本当のところは全く、全くもって【他人のため】ではなく、自分の心を保つための心の反応に素直に従っていただけだったんだろうと思います。他人のためと思ってしていたこともすべて、結局は、全部自分のためだったんでしょうね。そして、そのお陰で心を壊しながらもなんとか生きられていたんだと思います。私は皆に肯定してもらうことでしか生きられなかったんだなあ。そして、そこに依存させてもらってたんだなあ。今まで私を肯定してくれた方々、本当にありがとうございます。

そんな感じで、私は自分の心の本質にまた少し近付いたのでした。今まで、どうして死にたかったのか、なぜいつも満たされていないのか全く説明できなかったのに、いつのまにか説明できるようになってたのがなんだかショックで、それを認めたくないと反応している自分も居て、でも認めないと楽になれないし次のステップに進めないこともわかるから、その葛藤にちょっと混乱しています。

そういうわけだったんだ

でも、これで、今までの自分がしてきた行動の奥にある心の反応の理由がわかりました。

悩みを人に打ち明けることで構って欲しがったり、人に尽くすことで誰かの特別になりたがったり、辛い仕事でも給料をもらえるだけで幸せを感じたりしたのは、自己肯定感が低すぎたからでした。

自分では愛される資格を自分に認められなかったから、誰かにそれだけ価値を与えてほしかったのでしょう。しかも、それを一瞬しか信じられないものですから、素直に受け取って満たされることもできず、自分に生きる価値があるかどうかすぐに不安になってしまうので、何度も言って欲しくなるんです。誰かからの思いやりやら気遣いやらで、何度もなんども「あなたを愛しています」と伝えて欲しくなっちゃうんです。でも、それを信じられるのは一瞬で、次の瞬間にはもう足りない。

そんな愛情の欲しがりは底なしです。

多分、だから自分には「メンヘラ気質」があったし、人に依存しやすかったし、誰かを支えているという気持ちにさせてもらうことで誰かに支えられていないと居ないと生きる意味など感じられなかったのでしょう。

さらには、それが人の負担になることも知り、やめなければという理性と、やめられない現実との葛藤に苦しみながら、なんとか人に依存しなくなることはできないものかとずっとずっと模索し続けたのでしょう。

一人暮らしを始めた頃など、毎日のように友達に電話に付き合ってもらっていたのを懐かしく思います。寂しくて、仕事に休みなんて要らないと思ってました。仕事に行けば寂しさも紛れるし、おまけにお金まで稼げますから。

きっと、実家を出るまで親に依存してた「親のために○○している、いい子」という”生きる意味”を失った私の心が混乱してたのだろうなあ。そうして、その後きっと、親ではない”生きる意味をくれる依存先”を見つけようとしてたのだと思います。もしかしたら、ココトモハウスで看板スタッフをしたくなったのも、そういう心の性質による部分があったのかもしれません。

今では自分の事を自分である程度認められるようになってきたので、前ほど他人に依存することもなく、以前のように【毎日のように友達と電話】なんて疲れるなあと思うようになり、仕事に休みなど要らないなどとも思わなくなり、そんなことよりも自分のプライベートを充実させる方にフォーカスを当てながら生きるようになりました。

一人の時間も寂しくなくなったし、むしろ、定期的に「1日中一人で居る日」というのを作った方が心が楽な自分にも気付きました。それは、自己肯定感があまりにも低かった時には、本当はそうしたくても不安と焦りとどうしようもない寂しさでできなかったことでした。

私は【一人になりたくて、でも孤独になりたくない】という難しい矛盾に囚われていたと思います。疲れたから一人になりたいけれど、心からは不安と寂しさが溢れ人に会いたがるし、でも人に会うと疲れてしまう自分もいて、その疲れは一人で寝てないと癒されることはなく、でもその「一人で寝ている時間」は孤独で心が壊れそうになるという、皆と居ても一人で居ても、どうしようもない寂しさや苦しさからは逃れられないというなんともエネルギーの要る生活をしていたのでした。

どちらも苦痛に感じることなく、自由に選べたらなあ。

それができない私は不自由だったと思います。

複雑で、矛盾した心

別に、別に自分が【愛されたい】とだけ思っていてそのために色々してるのなら、そこまで大変ではないと思います。自分が愛されたくて行動しているという自覚があるため、その結果を受け取れたときにはちゃんと嬉しいと感じられるのではないかと思うからです。

厄介なのは、【愛されたい】が【自分は愛されてはいけない・愛される価値などない】に覆い隠されて自覚できないくらい深くまで押し込められてしまった時です。無意識に【愛されたい】と望んでいても、意識の中では【愛されてはいけない・愛される価値などない】と思っているわけですから、誰かからちょっと思いやりをもらったり、優しくされたり誉められたりしたところで【愛されてはいけない・愛される価値などない】が邪魔をして、「愛される価値などない人に優しくするなんて、裏があるに違いない」とか、「褒めてくれているけど、本当はそんなことはない。だって私は○○だから。その人が間違っている」などと、愛されていない証拠をどんどん探しては意識が全く優しさや思いやりを受けとらないため、無意識の【愛されたい】まで届く愛がほとんどありません。(しかし、全くない訳ではないと思ってます。人の思いやりに継続的に何度も触れたときに動く心もあるからです)

また、【愛されてはいけない】という考えの派生の【周りは私を愛しているはずがない】という思い込みもまた、愛情を枯渇させました。

私はそういう【愛されたい】無意識の心に全く気付かないまま、意識で【かまってちゃん】な私を無理矢理コントロールしようとしたため、無意識の心だけが叫びを上げていて、でも意識の中には何も矛盾がないので「どうして辛いのかわからない」と、困ってしまう始末。そこで、余計に「わけもわからず死にたいなんて、自分はなんてダメな奴だ」と自分を責めてしまい、益々無意識の心が傷付いて愛を欲しがるという悪循環に陥ってたんだと思います。

また、意識の中で【愛されたい】と思ったとしても「いや、私は愛されてはいけない」「愛されたいと思うなんて、甘えた考えは捨てなければならない」「愛されたい望みを捨てるのは、自立のために必要なことだ」という気持ちを無視した頭でっかちな理性と【私は愛されたいと思うような人間ではない】と思いたい気持ちから、自分が愛されたいと感じたこと自体が揉み消され【愛されたい訳じゃない】という考えにすり替えられてしまうんですよね。

気持ちが意識によってすり替えられるなんてこと、今まで言われても全然ピンと来なかったけど、本当に起こるみたいです。恐ろしい。

愛されたい=悪いこと?

なんでここまで拗れたかって、大元にあるのは【愛されたいと願うなんて、未熟者が思うこと。自分のプライドが許さない】という気持ちがあったからだと思います。

愛されたいと願い、素直に人に甘え、わいわいいちゃいちゃしている人たちを見ると【甘ったれてるんじゃねえ!】とイライラしていたし、【私はそんな人間にはなりたくない】と軽蔑すらしていました。

【人に幸せにしてもらおうなんて甘いんだよ】

これが、私が甘えたくなったり、甘えてしまったときに一番よく聞こえていた心の声でした。

自分の幸せは自分で掴み取るもの。人に依存しない。依存するなんて、カッコ悪いし、迷惑だ。

その考えは、半分当たりで、半分間違いでした。

結局根本にあるのは、AC

そもそも、この考えかたが私に形成されてしまったのは何故でしょうか。

答えは、私の過去にあります。

私の過去として、毒親生まれの過干渉育ちという背景があり、キュウはアダルトチルドレンなのです。

本当は、親からの愛情が欲しくて欲しくてたまらなくて、親に尽くして必死にいい子を頑張ってきたのに、返ってくるのは望むような愛情ではありませんでした。無償の愛などどこにも存在せず、何もできなくても私の存在が大切だと感じることはなく、親の機嫌を損ねないことが幸せだと思い(機嫌を損ねる=見捨てられるという意識が強く、本当に捨てられたら死んでしまうから、それは普通の自己防衛反応だったと思います)、いつしか「愛情が欲しいと思ってはいけない」「人に尽くしていればいつか幸せになれる」という考えに変わっていったんだろうと思います。

一体、記憶の無い時期に、私には何があったのでしょう。私はなぜ、一番古い部類の記憶の中でも死にたいと思っているのでしょうか。親に「布団を頭から被ると死んじゃうよ」と言われ、それを信じて本当に死ねるんじゃないかと連日被り続けた幼い私には、一体何があったのでしょう。

また、家に信じている宗教があったのも、私を混乱させていました。宗教の中では「無償の愛」を与えることが美徳とされ、「見返りを求めなかったら神様から愛される」という考えが共通認識としてあるので、私みたいな人が聞けば、見返りを求めることは悪いことと勘違いしやすいと思います。

きっと、健康な精神の教会員の人は、前提として「人に見返りを求める自分」が意識の中に居るのです。だから、その他の選択肢として「見返りを求めないこと」を選びたいと思うことができ、自尊心を保ちながら自己鍛練に励むこともできるのではないでしょうか。

でも、私にはそもそも「愛情に見返りを求める」という発想すら意識の中にはなかったのでしょう。そもそもが無償の愛など知らないから。私は本当に不自由だったんだなあ。

知識が欲しい

そんな私は、今、アダルトチルドレンな自分を変えたくて、変わりたくて、図書館に通い本を読み始めました。

今の私が読んでよかったと思う本達には、今まで知らなかった知識が、それでいて心はなんとなく感じていたけど言語化できなかった知識たちが詰まっていたりするから不思議です。知識を渇望する私に、それを埋めてくれるかのように色んな知識が入ってきている途中、、、の気がします。

そして、それが心地よいので、しばらくは図書館に通う予定です。

いったい私はなぜ苦しいのか。苦しい中でも変われるのか。私がどの方向に進み変われば共依存への恐怖からを抜け出せるのか。また、アダルトチルドレンを克服できるのか。

ゆっくり、でも迅速に、向き合いつつ変化できたらいいなあと思います。

 

知識を得る度にみつかる新しい発見と、それに関する心の動きもブログに書けたらいいのだけど。なかなか難しいです。

それでも。そうやって足掻くうちに、自由になれる日が来るといいな。

 

また書きたくなったら来ますね(*´-`)

 

では!

 

 

キュウ

 

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コメント一覧

全3件
  1. schedule2023.07.20

    quest

    キュウさん、はじめまして。

    50代後半の男性です。

    キュウさんの自己探求・自己理解は興味深く気づかされることがたくさんです。
    布団の話にも共感しました(笑)

    少し前、母親に生まれた頃からの生い立ちを聞いてみました。
    それこそ、私も記憶の無い幼児期に何があったのかを知りたくて・・・

    2歳になる前に、ひとり遠く離れた実家の祖母に1年ほど預けられたとのことでした。
    私は泣かない強い子だったと思われていたみたいです。
    物心ついたころには、両親と姉と祖父母の6人で暮らしていたのですが、異質な自分は次々と問題行動を起こしていました。
    それでも婆ちゃんの愛だけが心の拠り所だったのを今も覚えています。
    私の根底には【大切な人は、どーせいつか居なくなる】と深く刻まれているように思います。
    それが今でも色濃く残っていると思う行動がしばしば恋愛に現れます。
    【不安を感じ相手が離れていく前に、自分から関係を突き放す】という行動です。
    家族に愛されて育ったと感じている現在のパートナーはそれを理解してくれようと一生懸命です。
    今でも相手を困らせてしまう生存本能と上手く付き合っていきながら、自己探求していきたいと思います。

    これからもブログを楽しみにしています。

    みたいです

  2. schedule2023.03.07

    炊飯器

    初めまして。一文一文が、私が悩んで考えてきたことと本当に同じで驚きました。
    そして私も最近図書館に通い始めたところで笑

    私も知識を得るようになって、客観的に自分の思考や感情を理解するようになりました。おかげで外に出て色んな人に出会うようになりました。最近は、その出会った友達を観察していて、その愛情と見返りの仕組みにおける見返りの内容が、私が考えているものよりもっとシンプルでエネルギー負担が少ないものがありそうな気がしてきまして。その正体を言語化したいなぁと考えてます

    …意味の分からない自分の話をしてしまいましたが、キュウさんのブログを読んでなんだか親近感が湧いて、とても嬉しかったです!
    ご自身に向き合ってくださって、その想いを伝えてくださってありがとうございます!

  3. schedule2016.11.14

    ぬい

    人に望んでも望んだ愛がもらえるわけじゃない
    それならば愛を要求しないことが正解なのではないか
    そんなふうに考えてた時期もありました
    愛は等価交換じゃなきゃいけない
    だから自分が相手に差し上げる愛がないのなら自分は愛を得る権利はないんじゃないか
    そんなふうに思うこともあります
    けれどやっぱりそんな理屈は通り越して愛を求めて憤慨する自分も心のなかにいるなと感じるこのごろです

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