受付終了
ただ話を聞いてほしい
20代前半 女性

幸せな家族になりたかった

閲覧数513 コメント数2 personセレーネ edit2023.07.15

これは私の思いを書きなぐったものです。とても長いので興味がある方だけお付き合い下さい。
私は幸せ者だと思っていた。小さい頃は母もいて父もいた。母は鬱病を患っており基本部屋に篭っていたが部屋で母とお喋りしたり一緒の布団で寝てるだけでも幸せだった。いつもはコンビニ弁当だったけど母の調子がいい時は夜ご飯を作ってくれてその時はお風呂上がりに自分の一張羅のパジャマを着るほど幸せだった。母の作る里芋の煮物が大好きだった。母と父はたまに喧嘩していて泣きながら叫ぶ母と呆れてイライラしながら「どうしたいんだよ!」と怒る父を見ていた。母には自傷行為をする癖があり夜中にトイレに行こうとしたらお風呂場で風呂桶の前に母が座っていたのを今でも覚えてる。そんな家庭だったが私は幸せだった。母も父も大好きだった。でも母は私が小4の時に亡くなった。近くの橋から飛び降りて自決した。辛かった。正直よく覚えてない。葬式で母を顔を見た時トラウマになりそうなぐらい怯えていた。母の遺骨さえまともに見れなかった。それから私はいとこの家で日中はお世話してもらうことになった。当時の私にとっていとこの家は苦痛でいとこがテレビ見てる中自分だけ勉強したりいとこやいとこの母親に蔑まれたり馬鹿にされたりが日常だった。それでも残った父が私を大事にしてくれていたから頑張れた。小5になり父に女の人を紹介された。その人は会社の人で自分より5個下の娘を連れていた。それからその4人でお出かけすることが多くなり色んな所に連れてってもらった。ある時その話をおばあちゃんにしたらおばあちゃんは父と女の人を自分の家に連れてっておじいちゃんも含めた4人で話し合ったらしい。それから今まで住んでた家から引っ越すことになった。おばあちゃん曰く「あの家は娘に買ったものだから他の女の人を連れ込まないでほしい」だそうだ。私たちは小さなアパートに引っ越したが父がその女の人と会うのはやめなかった。外のホテルや旅館にお泊まりもした。その時私は高校生だった為、大体予想はついていた。朝早く起きると下着姿の父と女の人が同じベットで寝ていた。それでも父の幸せの為に黙っていた。祖母の家に行くと祖母は「あんたの母親が死んだのはあんたの父親が浮気していたからだ」と聞きたくもないことを聞かされて泣いている私に延々と言ってきた。朝泣いて目が浮腫んだ状態でリビングに行くといとこの母親に「ひっどい顔笑笑笑」と笑われた。それから私は祖母の家に行かなくなった。私が大学生になると父と女の人は一緒に住み始めた。それと同時に再婚したらしい。女の人がいつ離婚したのかは知らないが私の家は4人家族になった。父、義理の母、義理の妹、私。最初は楽しいと思ってた。しかし、3ヶ月目で私はメニエール病と逆流性食道炎を発症しました。親たちからは「大学を頑張りすぎたのだろう」「バイトのし過ぎだ」と言われたが私はどちらもストレスを感じることなど一切なかった。それと同時に私は父方、母方の祖母どちらからも再婚相手について根掘り葉掘り聞かれた。父は自分の親に再婚することを話していなかったらしい。「何で私がこんな事答えるんだろう....」と思って答えていた。
一緒に住んで1年経つと徐々に辛くなっていった。父は私が大学生になってから何かと門限をつけたりバイトする場所を制限しようとした。また、私が何かをやりたいと父に言うと最初の言葉が「無理だ。お前には出来ない。」だった。飲み会で門限を過ぎるとLINEが来たり時には電話が来て暴言を吐かれながら家に帰ってくることを催促された。その電話後、夜中2時で終電がない時間だったから私は歩きで家まで帰った。それが辛くて飲み会の後は2日間ぐらい泣いて過ごした。義理の母は「あなたの事が心配だからそう言ってるのよ」「いつまでも悲劇のヒロインぶってないで泣きやみなさい」と。義理の妹も最初は可愛かったがすぐに家族に適応して私の事を本当のお姉ちゃんとして扱うようになり大学生の私からしたら距離感が掴めなかった。しかもバイトが終わって11〜12時に帰宅すると決まって起きてリビングでテレビを見ていてダル絡みされるのが本当にウザかった。しまいには、「大学生なんだからお小遣いよろしくね!」とか言い出した。それで引きこもりになったのが今年の5月。なるべく家族の誰とも顔合わせないようにした。ある日父に呼び出されて「何で最近部屋に引きこもっているんだ」と聞かれた。私はなんて答えればいいか分からなかったけど誰とも会いたくないからと答えた。この家にいるのが辛いと。私ばっか辛い目にあってると。そしたら父は「お前は不幸じゃない。住む家もあるし家族だっている」
と言った。私はこの時「ああ、お父さんは何も分かってないんだな」と思った。それで耐えきれなくて一人暮らしを始めた。最初は上手くやっていたが開放された反動からか適応障害になった。父の言動について調べてみたら「過干渉型の毒親」と出てきた。「過干渉をするのは自分が不安になりたくないから。」それを知って気づいてしまった。片親になっても父は愛情を向けてくれているから私は幸せだと思ってた。でも父は本当の意味で私を愛してなかった。それか愛してはいたがそれは真っ直ぐな愛じゃなく歪んだ愛だった。辛かった。父だけは私の味方だと思っていた。信頼できると思っていた。愛してくれていると思ってた。誰も私を愛してなかった。もう誰も信用出来なくなっていた。
あんなに追いかけてた自分の夢にも興味が湧かなくなってしまった。死にたくて仕方なかった。でも、こんなクソみたいな奴らのせいで自分の人生棒に振りたくなかったし何より心の底ではまだ自分の夢がくすぶっていた。今はどうすればいいか分からない。適応障害で大学にも行けてない。でも自分の人生を諦めたくない。書き出せば楽になると思ってここに書き出した。
ココトモメンバーたちと交流しよう♪

ココトモメンバーたちと交流するための『メンバーのお部屋』掲示板ができました。気になるメンバーと気軽にお話することができます。ぜひ色んなメンバーのお部屋に遊びに行ってみてください♪

メンバーのお部屋はこちら

コメント一覧

  • refresh約9ヶ月前
    50代 女性
    初めまして
    書き出して少し楽になれたかな?
    長らく周囲の大人に振り回されてきたのですね
    でも辛い時期は終えたようです、これからは自分の意思で人生を組み立てて行けるのです。
    お母様も貴女が自分らしく生きて行けることを望んでいると思います。
    お父様は愛情表現が苦手かもしれないけど
    貴女を一番気にかけていることに間違いないです。
    時間かけても良い、前向きに歩めるよう願っています。
  • refresh約9ヶ月前
    メンバー
    なっつ 20代後半 女性
    はじめましてなっつと言います。
    お母様のこと、お悔やみ申し上げます。
    幸せだと思っていた世界が突然崩され、辛い状況になってしまったのですね。
    相談者様が自分は不幸だ、辛いのだと思う権利は親であっても侵害はできないと思います。
    つらいときはつらいでよいと思います。
    自分の人生を諦めたくない思いはとても大切な物ですが、無理はしないで時には休んでもいいと思います。
keyboard_arrow_up