一緒に対処を考えてほしい 初回返答から提案
20代前半 女性

母親が亡くなった時のフラッシュバックが頻発するようになりました。

visibility29 chat0 personルル edit2025.09.22

現在25歳です。
7年前、母親が自死をし、その時のことが今になってフラッシュバックが酷くなり、頭が痛くなるほど泣いたり、仕事を休むなど生活に影響が出ています。

過去のことをお話しします。
母親はうつ病で、私が1歳の頃に父親とは離婚しており、ほとんど近くに住んでいた祖父母の元で暮らしていました(現在も祖父母と住んでいます)。
病気のせいもあり、不安定になったかと思えば私や祖父母に強い言葉を言ったり、何度も自死未遂(大量服薬による)をしたりし、救急隊員や警察の方への対応に追われた思春期を過ごしました。
私はそんな状態の時に仲の良かった友達とトラブルになり、中学時代はほぼ3年間不登校でした。
高校も、不登校枠で入学できる公立の高校に入りましたが、3ヶ月も続かず、退学をし暫くフリーターをし、その後通信高校へ入学し卒業しました。

母親は私の事を好きでいてくれていたと思います。
公立の制服を買ったのに私の気持ちに沿って嫌な顔せず退学を許してくれましたし、通信に入学せずフリーターをするのも許してくれました。最終的に通信の高校で色んなところを比較して考えてくれたのも母親です。ちゃんと、私を育てようとしてくれてたと思います。

ただ、感情が爆発した時に手を付けられない状態になることも多々で、いちばん酷い時は、母親と地元を離れて千葉に一緒に住んでいた時、私は部屋にいて母親はリビングにいた時です。急に笑い声が聞こえて、電話でもしてるのかと思っていましたが、次第に狂気的な笑い声に変わっていき、これはまずいと思った時には遅く、私の部屋のドアを包丁でガンガンと叩き始めました。ドアに鍵は付いていなかったので、私は必死で入ってこないようにドアを抑えました。
母親はその時自分で警察に「娘を殺してしまうから来てくれ」と連絡していました。私も気が動転して祖父母に連絡を取り、警察に連絡しろと言われたので泣き叫びながら電話したのを覚えています。
流石に虐待扱いとなり、児相の指示の元、しばらく私と母親は引き裂かれました。
そこからの関係修復は難しく、何となく溝が出来た状態のまま時間が経ちましたが、それから少し顔合わせをするようになりました。
またそろそろ一緒に住み始めてもいいかも、と思い始めた最中でした。
またいつもの流れで情緒不安定になり、私や祖父母に強い言葉を言い始めました。
いつもは、宥めて、母親の望んだ言葉を言ってその場を凌いでましたが、その日私と祖父母は違う行動を取ってしまいました。
疲れていたんです、全員。嘘か真実か全ては分かりませんが、こちらのことをいとも考えていないような言葉の数々に。
「普段と違う行動をすることで、何か変わるかもしれない」「私たちの気持ちを理解して、思い直してくれるかも」そんな希望を抱いて、私たちは母親を突き放してしまいました。確かに変わりました、悪い方向に。今思えばあの状況で突き放すなんて有り得ないと思いますが、それ程に限界だったことも確かです。
何故そこで突き放したかと言われたら、疲れてしまったからとしか言いようがありません。
寄り添ってくれていた祖父母は電話に出ず、LINEで話していた私からも無視される。母親は絶望したでしょう。
「後は頑張ってな」
色々と長文メッセージが来ていましたが、その言葉を最後に連絡が途絶え、嫌な予感がした為、千葉に住んでいた母親の様子を見に行ってほしいと、地元から警察に連絡を入れました。
しばらくして、警察から私に連絡がありました。
まあ、いつも通り無事に保護されただろう。そう思って。
「原則として、救急車での搬送はいたしません。」

意味が分からず、思わず聞き返しました。
「意識はあるんですよね?」

少しの沈黙の後、
「ほぼ死亡状態です」

そこからはよく覚えていません。
近い親戚に声をかけ車を出してもらい、千葉まで向かいました。
車で声を押し殺して泣きました。
自死ということでしたが、大量服薬の上での首吊りだった為、警察署で事情聴取を受けました。
聞かれた内容はほぼ覚えていませんが、この質問だけは覚えています。
「お母様が亡くなって、悲しいと思いますか?」
思うだろ。
私は昔から周りを気にしすぎてしまう性格故、その時も私が泣いて話が円滑に進まなかったら警察の人困るだろうな、と思い泣くのを堪え淡々と質問に答えていました。確か何点か質問され中盤くらいに言われたと思います。
マニュアルにあるのか当時18歳だった子供が泣きもせず淡々と答える姿を見て不思議に思ったのかは知りませんが、非常識だと思いましたし、それから警察が嫌いになりました。
警察署の霊安室に向かい、母親の顔を見ました。一緒にいた祖母は母に触れて泣き崩れ、運転をしてくれていた叔父さんも涙ぐんでいましたが、私は泣くことが出来ませんでした。
受け入れたくなかったからです。自分のせいじゃないと言いたかったからなのか、子供の心では受け入れきれなかったのかは分かりません。
ただ、泣き崩れる祖母を見て、「私はこれ以上祖母の前で泣いてはいけない」と思った記憶はあります。

それからもう空は明るくなっていましたが、母親の住んでいた家へ向かいました。
3匹の猫を飼っており、部屋の惨状を見て急に警察やらが押し寄せてきて混乱したんだろうということが分かりました。
ただ印象ついてるのは、山盛りになっていた餌。
自分が死んでも猫が餌に困らないように母親が盛ったようでした。
それが記憶にあり、未だに思うのです。
"本当に死にたかったのか?"
前々から自死欲があるのは分かっていましたが、大量服薬で苦しみを避けようとする(実際即死)、猫に餌をやるくらいには頭が回っていたんだと感じられるからです。
本当は死ぬまでではなかった、でも私達が見放したことでその背中を予期せず押してしまった、としたら。
今まで、致死量にならないように計算したり、吐き戻せるように事前にカップラーメンを食べたりして自死未遂をしていた人が?
絶望するには十分でした。

私はそれから母親の死に目を背け続けてしまいました。
最低限の行事はしますが(お盆やお彼岸、月命日のお墓参りなど)、お仏壇には顔写真が飾ってあるので、どうしても直視できず、お線香もまともにあげられません。
夢に出てきただけで1日のモチベーションが上がらない、少し母親の話をするだけで涙ぐむなどは7年間ずっとありましたが、ここ最近は当時警察から死亡を告げられた衝撃や、母親の青白い顔、最期にしてしまった後悔やらなにやらフラッシュバックしてくるんです。
何かきっかけはありません。突然です。
そんな過去もあってか、最近は祖父母の死についても恐怖を覚えます。もう死の悲しみは味わいたくないですが、どうやっても、祖父母は私より先に逝ってしまいます。
もう母親はいませんし、祖父母のことは悩んでも仕方ありません。分かってますが、つらいです。
楽しいことはあります。もちろんその時はフラッシュバックは起こりません。なんて都合の良い脳みそなんでしょうか。
楽しいことだけして過ごすなんて無理な話なのに。
仕事も行きたいのに行けなくて。
この過去を無かったことにしたい訳ではありませんが、抜け出すにはどうしたらいいんでしょうか。
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