てこの日記『春耕秋収 ー 其の三 ー  つごもり日』

みな月のつごもりの日よめる

夏と秋と行きかふ空のかよひぢは かたへ涼しき風や吹くらむ
(古今和歌集 夏 凡河内躬恒  おおしこうちのみつね)

徘徊に、いつも天気が微笑んでくれるとも限らない。日中は、小雨。降り出しは夜明け頃からの予想となっていた。

九月二十九日、九月のつごもり日。明け方と言うのか、深夜と言うのか、そんな時間からの徘徊の始まり。

見上げると全天、雲に覆われて宵闇空も、淀んで見える。すでに望む結果を生む気配はないが、大きな川に出会える場所へと向かう。かちあゆみ故に、動いていればさほどの寒さは感じないが、風は冷たく感じる。歩き始めて半時もすると、叶うと叶わざると関わらずの目的があるにしても、何をしているのだろうなどと。それが、ある意味良いのだろうなとも思う。結局、重い腰をあげてなのか、とりあえずの歩き始めは、現実感の中でなのだが、馬鹿馬鹿しいとか、少しの疲れだとか、諸々雑念のようなものが消えた時に、何かが感じられる。究極的にはそれだけが目的なのかも。

しばらくして、川岸に着く。いつもなれば、対岸まで渡って海に向かうのが常なのだが、天候次第ではあるが日中に所用がある。なので陽が昇る前には、帰路につく。
そこで、河川敷に向かう堤の上から川を眺めることに。対岸の西の空は、ほんの少し雲の切れ間もあるが、ほぼ全天が雲に覆われている。すでにこの状況にて諦めがほとんどなのだが、しばらく待つことにはした。川の流れを見ながら堤の上に座り込んで、ときおり天を仰いでじっと待つ。歩みを止めて座り込むと、いっそう風が冷たく感じる。我慢大会ではないので、上着を羽織る。幾分ましとなったが、あいかわらず。

さて予定の刻限となった。が、期待のとおりとはならず。それでも、予定の刻限は地平線に上がる時刻なので、もう少し高度が上がる刻限まで待ってみることにした。偶然、雲間に登れば良し。
結果は、かわらず。こんな拙き物の読み手の諸氏には、心づくだろうが、待ち人は「月」。

つもごり日あたりの月は、いわゆる「有明の月」といわれ、つまりは明け方に昇る。実は二十六夜あたりから、明けの三日月を待ってもいた。が、月の終わりにかけて、夜の天気は思わしくない日が続いた。「月」を愛でる月としては、ちょっと最後に悔いが残ることになったか。

暦の上では晦なのだが、月齢だと朔に至るまでには少しある。とはいえ流石に、有明月を待てるほどには翌日も暇はない。
なのに性懲りもなく、また夜には、ほぼ同じ所に出向き、今宵も上がるはずの月の方角を眺めて、下流から暗い遊歩道を川面に沿って散策した。

冒頭の短歌。夏から秋の歌だが秋土用が過ぎ、立冬を迎えた今であれば、

秋と冬と行きかふ空のかよひぢは かたへ冷たき風や吹くらむ
ということだろうか・・・。

秋と冬が入れ替わる日なので、
空の通路(かよいじ)では片側だけ冷たい風が吹いていることだろうと。

favorite読んでくれた人へのメッセージ

旧暦九月は、少し想いがあって「月を愛でる」月間としていました。
これからは、暖冬予想とはいえ寒さも日増しに来るでしょうし、陽気が良くなるまでは月待ちは、しないかも。
流石に、ふと昇った月を眺めるのは良いにしても、月待ちは、あまり良い精神状態でもないような・・・。

まぁ、お近くに全天が開けるような場所があれば、たまの月待ちも良いものですよ。

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