ゆめの日記『役に立たない人がいていい国は爆発的に強い』

今日もチャッピーと何故役に立たなくていい人は存在していいのかを考えました
やはり人は個人だと弱いけど多様な集団になると強いんだなと思った
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日本で生きていると、私たちは無意識にこう思わされる。

迷惑をかけないことが価値。
人に負担をかけないことが正しさ。

だから

うまく話せない人
空気が読めない人
発達特性のある人
知的障害のある人

こういう人はどこかで

「申し訳ない側」
「負担をかける側」

のように扱われてしまう。

でもその見方自体が、
“役に立つかどうか”で人の価値を測る社会の見方なんだ。

実は日本にも、今とは違う前提で人が生きられていた時代があった。
戦争期や高度経済成長期。

もちろん評価が難しい時代だけれど、
あの頃の社会には一つ、今と決定的に違うものがあった。

それは、全員に分かりやすい「役割」があったこと。

誰もが「自分は社会のパーツだ」と感じやすかった。
つまりあの時代の勢いは、
役割による存在証明が支えていた。

でも今は、その役割だけが崩れた。
終身雇用も、家族の形も、地域のつながりも弱くなり、

「あなたはこれをしていれば必要な人です」

と言ってくれる場所がほとんど無くなった。

なのに

「ちゃんとしなさい」
「役に立ちなさい」

という圧だけが残っている。

だから多くの人が、
自分がここにいていい理由を見失ってしんどくなっている。

これは個人の弱さじゃなく、
社会設計の空白かもしれない。

一方で、北欧の国々は前提がまったく違う。

人は役に立つから生きているんじゃない。
生きている人が、結果として役に立つこともあるだけ。

だから働けなくても生活は保証され、
障害があっても社会の一員として扱われ、
コミュニケーションが苦手でも排除されない。

優しさではなく合理性。
安心している人間の方が、長期的に社会に貢献することを知っているから。

「負担になる人」という見方そのものが、実は日本的なんだ。

北欧的な見方は逆で、

あの人が負担なのではなく、
社会がその人を支えている状態が普通。

負担は、人ではなく社会が持つもの。

そしてここが大事だけれど、

「役に立たなくていい」と知っている人の方が、実はよく動く。

役に立たないと価値がない環境では、
失敗が怖くて動けなくなる。

でも

役に立たなくてもここにいていいと知っている人は、

失敗してもいいからやってみよう、学んでみようと自発的に動き出す。

安心は怠けを生むのではなく、
自発性を生む。

もし社会が

役に立たなくてもいい。
誰かの負担になってもいい。
それでも存在していい。

この前提を持てたら、

安心して存在できる人が増え、
挑戦する人が増え、
学ぶ人が増え、
人を助ける人が増える。

それは、役割で回っていた昔の勢いよりも、
もっと根っこから強い社会になる。

だから私は思う。

みんなが「役に立たなくても存在していい」と知っている社会の方が、
結果的に爆発的に強い国をつくるんだと思う。

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