寛容さと想像力

※自念的な内容かつ、想いの丈を吐き出し、整理するために書くため、長文になることをご容赦ください。

正月明けにショックなことがあり、精神的状況も踏まえて、一ヶ月ほどココトモでの活動をやめていました。

僕は、物事は解釈次第と考えてきました。
捉え方次第で、見方は変わるというものです。

ただ、それには想像力が必要になります。
対象となるものと向き合い、その根っこの部分を見つめることです。
これは、自分自身を見ることも同様です。
ネガティヴな面をポジティブに、マイナスな面をプラスな面にするためには、その対象と向き合った上でないと意味がないんです。

大切なものを失う感覚

今年の初め、僕が人間的にとてもリスペクトしていた人が芸能界から離れることになりました。

その人は、幼き頃から自分が抱いた夢にむけて万進していました。
いくつのもの困難も、夢への高き想いで、体を治し、多くの技術を身につけ、支える人たちへの感謝をしながら一つ一つ克服していきました。
そして、たくさんの夢を叶えていきました。

その生き方に、人間としての美しさを感じ、人への希望を少しだけ抱くことができました。

その人は、夢を追う中で自分に足りないものに気付きます。
夢を追うが故に、手に入れていないもの、経験をしたことのない世界があることに。
それは、「普通の日常」でした。
その人は、足りないものを手にするために、自分がいた世界から去ることにしたのです。

それは、人間らしさを手に入れることなのだと思います。
人間らしさに惹かれたものとして、逆説的にその想いは、とても理解できました。
その人の軌跡を追うことで、その想いへ至る経緯が想像でき、僕なりに理解できたのです。

しかし、僕の中にあった「その人」が無くなる感覚は、とても大きな喪失感となりました。

今思うとそれは、「死」による喪失感と同じでした。
ちょうどその頃、お世話なっていた親戚が亡くなりました。
その時に感じた喪失感と同じでした。

でも、その人はまだ生きています。
そして、新しい夢に向かい走り出しています。

ですが、僕の心に空いたものを埋めることができずにいます。
事実も理解でき、前に向いて進んでいるにも関わらず、喪失感が消えません。

「好き」の反対は、「嫌い」であった

「好き」の反対は、「無関心」と言いますが、それは本質的に違うと思っています。

「無関心」とは、「関心が無い」状態です。
想いのベクトルがどこにも向いていない状態です。
だから、プラスにも、マイナスにもなるのです。
想いのベクトルが正負で真逆になっているのは、「好き」と「嫌い」の関係です。
「好きの反対は無関心」での「無関心」とは、「存在を否定する」というであり、それは「関心を無くす」ということです。
悪意という意味では「嫌い」と同義なんですよね。

僕は、喪失感を抱きながら、人間の本性を目の当たりにします。

かつてその人のファンだった人たちが、様々な場でコメントをしていました。
その中には、目を疑う言葉たちがありました。
その人に向けた言葉は、「裏切られた」「失望した」「身勝手だ」でした。
その上で、「嫌いになった」そうです。

物事の捉え方は様々です。
絶対的な正解はありません。

しかし、僕はそれらの捉え方に怒りを覚えました。
そして、人の本質的な醜さを見せつけられた気がして、人への希望もなくなりました。
「好き」が「嫌い」になる瞬間、愛が憎しみに変わる瞬間です。
そして、無理解への怒りでした。

「私は正しい」争いの根はここにある

見出しは、真宗大谷派の言葉です。

人は、なぜ寛容になれないのでしょう。
その言葉をぶつける相手、その怒りをぶつける相手のことを理解しようと思う想像力がなぜ働かないのでしょうか。

自分の理想が壊れた時、壊されそうな時、人はこんなにも残酷に無慈悲になれるものなのですね。
僕は、これが醜く見えました。

多分、愛していたからでしょう。
愛していたからこそ、想いのベクトルが逆になり「嫌い」になったのでしょう。

僕は、そこに人間の本質的な醜さを感じてしまい、人への希望を失いました。

この本質は、特別なものではありません。
だれしも「正しいもの」を持っているからです。
人が当たり前に持っている「価値観」です。

人の争いは、全て価値観の衝突です。
平和を願うために、戦争が続くのと同じです。
誰かを、何かを守るために、人は戦うのですから。

そして、その醜さ・身勝手さは、僕自身にも持ち合わせているのです。
僕も自分の価値観を誰かに押し付けているわけですから。

ココトモの活動を再開します

僕は、再び絶望を知りました。
そして、人に希望を抱くことは決してしないと思います。

だからこそ、僕は足掻こうと思います。
抵抗しようと思います。

思えば、ココトモに参加した理由も、人の無理解への怒りでした。
人の価値を身勝手に決める人たちへの怒りです。
自分の価値観だけで、相手の可能性を潰す人たちへの怒りです。

絶望するが故に、人の可能性を見出したい。
その人その人の可能性を見つけたいです。

寛容さと想像力を磨きながら。

ということで、ブログもちょこちょこ更新していきます。
普段の生活の中で、感じたこと、経験したことを書いていこうと思っています。
重たいブログでゴメンなさい。

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コメント一覧

全6件
  1. schedule2018.02.18

    おっくん

    ぬいさん
    コメント、ありがとうございます。
    愛もまた、苦しみ。
    経験から何を感じ、何を学ぶか。
    僕は、この世に生を受けた理由はここにあると思っています。

  2. schedule2018.02.17

    ぬい

    愛別離苦
    仏教における愛とは、その対象を失ってしまう苦しみであり
    愛することもまた苦しみの一つであると言います
    愛が苦しみならば愛などない方がいいのではないか
    その答えはなかなか難しいのですが
    その苦しみさえ愛おしいようなそんな感覚もあるのかなと私は思います

  3. schedule2018.02.13

    おっくん

    猫の手さん。
    そうですね。
    自分を卑下することは、自分に共感してくれた人たちを卑下することと同義ですね。
    胸を張ってみます。

  4. schedule2018.02.13

    猫の手

    しつこいようで申し訳ないですが、追記します。
    自分の発する言葉を駄文だと自己卑下してはいけないと思います。
    それはあなたが自分を傷つける行為と同じに思えます。

    あなたの言葉はとても誠実であり、真っ直ぐであり暖かささえあります。
    それを受け取れない、受け取らない人もいますが、それだけの事です。
    おっくんの言葉に感謝してきた人達もたくさんいるのを知っています。
    自己卑下は、その人達にも失礼な行為だと思います。

    あなたが言葉を発する事により、同じ想いなのだと気付く人もいます。
    だから言葉を大切に発し続けているのかもしれませんね。

  5. schedule2018.02.13

    おっくん

    猫の手さん。
    文章から僕の駄文にも対して、考え理解するよう努めていただけたことが伝わります。
    嬉しいです。ありがとうございます。
    「深く感じる人ほど、口にださない」
    本当にそうです。
    口にすることでの影響もまた解ってしまうからでしょう。
    悲しいのは、黙することで新たな誤解を生むことです。
    このような無理解と分かり合えないことの連鎖は、人がこの世に生まれた時に背負うカルマ(原罪)なのかもしれません。
    分かり合えないが、それでも分かり合うように努力しなければならないという業です。

  6. schedule2018.02.13

    猫の手

    とても心に響く洞察でした。
    どんなに失望しても仕切れないのかもしれません。
    どこかに希望を見つけたいと思う限り、それは生きる力にもなるのだろうと思えます。

    相手を深く感じる事ができる人は口には出さずにいるものだとも思っています。
    おっくんと同じ様に感じた人達もきっといるのだと思います。

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