その言葉は、受け容れるべき?

だからあなたはダメなんだよ〜

あなたの為に言ってるんだよ?

苦しいよね?でも受け容れるべきなんだよ、辛いけど。

 

それって、本当?

今までそういった、他人からの叱りや言葉って、事実なんだと思ってた。

批判とか、マイナスな意見も、言われた時にどれだけ恐いと思っても、辛いと思っても、苦しいと思っても、受け容れるべきなんだ、叱ってくれる人は良い人なんだ。

相手の方が正しい。自分の方が、勘違いしていたり、間違っているんだ、と思ってた。

そういった他人の言葉は、自分を窮屈にして、不自由にさせた。

我慢を強いた。

それが常識で、自分達も我慢してるしそれが当たり前なんだからさ、お前もやれよ、従えよ。

そんな意識をぶつけられているようだった。

あぁ、他人に迷惑をかけたのかな?

少し気を遣っていたつもりだったんだけど、もう少し使わなきゃいけなかったのかな?

そんな風に思った。

湧いた怒りや悲しみがあったとしても、相手の言葉を受け容れるのに邪魔な感情になるので、排除しようとした。

批判、叱り、キツイ言葉や、辛辣な言葉。

そういった言葉を受けた時の自分の反応は、自分自身でとても分かりやすい。

心臓がギュッと掴まれたようになり、苦しいと思い、息をするのがつらくなり、表情を必死で繕う。

本心では『なんでそんなこと言うの?』とか『私のことをなんにも分かってない、分かってくれない!!!!』という言葉がこだまする。

私は、あなたが言うような人間じゃない。

もっと色々考えて、今の行動をしたんだ。

そうした自分がいる一方で…

それと対抗するように、『いやいや、あなたの為を思って、周りのこと考えて相手は言ってくれたんだから、受け容れないと。』という、別の自分が制する。

常識の、良い子ちゃんをかぶる自分。

いつも、心臓が縮こまった私が、信じてきた存在。

そんな良い子ちゃんに従っていた私は、親にも、周りの人にも、どれだけイラついても、この本心を明かすことはこれまでしなかった。

本心の自分を、言葉を信じたことだってなかった。

「叱ってくれる存在はありがたい。そのうち叱られもしなくなる。」

そうだと思ってた。

 

でもね、最近、思ったんだ。

それって、単に、自分を抑圧してるだけ。とゆーか、自分が思ったことに、した行動に、きちんとした意味があってそれは本当は悪いことでないのに、周りの意見に流されて、自分を信じずに周りを信じているだけじゃない?って。

周りの意見を聞く自分は、偉いと思った。

自分の本心さえ言わなければ、何も起こらない。

自分の気持ちを無視しても、その時多数決で多数派の意見がどちらなのかは瞬時に分かるんだから、それに従えなければ、自分は四面楚歌になってしまう。

だから、良い子ちゃんの言うことを聞く。

相手に従う。

 

 

でもそれは、自分を無視してるよね。

本当は、違うよね?

ってゆーか、多数の意見って、それ本当?

多数の意見だから、正しいって訳じゃないよね?

あなたの自由を、無意識だとしても奪う存在は、正しい?

あなたにとって、それって必要なの?

どんな批判や言葉で、「あなたの為に…」なんて言う人がいたとしても、その人って本当のあなたをわかってるの?

何が自分の為になるなんて、私にしか分からないじゃない。

心臓を掴まれるような想いをしてまで、言うことを書く必要も、その時間も、いらないんじゃない?

言われた言葉が、本当に愛のある言葉なら、私は心臓が苦しくなんてならないんじゃないの?

苦しいならば、その言葉は、あなたのために向けられたものではなく、その人のエゴを隠す為に、『偽りの愛』を込めただけの薄っぺらい言葉。

偽善に染められたその言葉は、それが偽善だと分かれば、受け容れる必要はないよね。

それが例え大多数の意見と同じでも、人は自分を守る自由も権利もあるし、その場を離れる自由もある。

苦い言葉を飲み込む必要はない。

マンガやドラマじゃないから、それが嘘や偽善だと教えてくれる術は、現実ではあまりないけれど、

1つ言えるとしたら、自分の心に正直になることだと思う。

聞いてて苦しいと思う、恐いと思う、その言葉は、聞く必要はない。

そんな想いは、『この言葉に愛はない!!!!』っていう、自分のセンサーだと思う。

その言葉が、例え親からの言葉でもとても信頼している友人からの言葉でも、常に正しいことを言ってくれるとは限らなくて、苦しい時には、「違う!」と言ってもいい。

言うことを聞く必要はない。

私は昔、とても仲の良い親友の言葉をとても信じていた。

『盲信』と言っても良かった。

信じきっていたから、自分を多少バカにした言葉や、辛辣だと感じる言葉があっても、言うことを聞いていた。

でも違った。

小馬鹿にしたり、上から目線だったり、思いやりのない言葉は、自分の中に違和感を感じる。

「そこまで言う必要ってある?」

「本当に、私の為だと思ってる?」

とゆーか、「あなたの為を思って…」という雰囲気や言葉程、胡散臭いものもなかったりするんだよね…

あなたは、私のことを全て知ってるわけじゃない。

これは、どんな人と付き合う時も、事実。

 

私は特に、自由にさせてくれない言葉や人に、最近とても敏感になった。

不自由だった頃が当たり前の時の方が、ある意味で生きやすかったけれど、今は今で、自己卑下や自己否定が減った自分が、嫌いじゃない。

不自由をむやみに強いる人や、不自由を強制する言葉はいらない。

それが本当じゃないか?自分が間違っているんじゃないか?

そんな不安は、結局逃げだ。

というか、苦しみながら受け容れた言葉で救われたことなど、思えば一度もなかった。

なんでもかんでも、『苦しいけど受け容れなきゃ』と思うことは、善でも何でもなかった。

辛い事が身を結ぶなんて、私にとってはきっと嘘だ。

楽しんでやったことや、無意識にやってたこと、何も考えずにしていたことが、今持っている幸福の原点だ。

嫌々受け容れたものは、幸福を運びはしなかった。

他人のウケがいくら良くても、私自身は嬉しくもなんともなかった。

自由に考え、自由に受け容れて、自由に取捨選択していこうと思う。

なによりも、その受けたものでどう自分が感じたか?それを何より誰より1番大事にすること。

多分、私が幸せになる1番の近道は、それだ。

愛のある言葉は、傷つかない。

もう一つ言えば、『自分だからこそ』というのもある。

要は、人を選んでいるということ。

批判を言いやすい人、というのは決まっている。

よく言われている人、気が弱そうな人。

だから、勝手に自分が『こいつなら…』とレッテルを貼っていたり、ラベリングしている可能性もある。

当の言う本人が、そんなフィルターに気付いていないことは多い。

タチが悪いのは、『大多数』の周囲だって、そのフィルターを持っていて、「もしこの子じゃなければ、同じようには思わない」というケースもある。

だから、人の言葉は100パーセントなんかじゃないんだ。

だから、自分が感じたことに正直になって良いし、どうせそうなら、心地いい言葉、心臓に負担のない言葉(苦笑)を選んで行きたい。

だってこの心臓は、どうせいつかは止まるんだ。

人に、そんな風に止められなくても、いつかは止まってしまうなら、その時まで変な負担はかけたくないよね。

死ぬ時には、楽しい記憶や思い出を多く持っていたいし、その場にいなかったとしても、沢山のご縁に囲まれていたい。

そう、だからね。

苦しいか、苦しくないかで、受け取る言葉は選んで良いんだ。

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