「生きる」と「生かされる」

私たちは、人間が創造する世界(社会)のうえで「生」という営みを送っています。

では、私たちは人間社会(世の中)で「生きているのか」「生かされているのか」どちらなのでしょう。

一般的な解釈でいくなら、「勝ち組」と言われている者が「生きている」であり、「負け組」と言われている者が「生かされている」と考えるのでしょう。でも、それはあくまでも「社会という経済活動」を基準としたルール(生活)であって、「本来」なのか「本質」なのか表現するのは難しいですが、「純粋な生ではない」と理解しなければ、息苦しくてやってられません。

 

そもそもですが「なぜ生きている」のか、「なぜ生かされている」のか。きっと立派な信仰や宗教観を持っている人なら説明できるのでしょう。でも、実際に「生」がある者にとっては、そんな精神論や蘊蓄を説かれても「だから何」となるのがオチです。

私たちが知りたいのは「現実においての存在意味・存在意義」であって、原理原則ではないですよね。それにもかかわらず「誰も教えてくれない」「誰もわからない」

 

「生きる」と「生かされている」は逆説関係であると仮に定義してみます。

「生かされている」という言葉に込められた意味(言霊)って、どの様なことだと思いますか。

「誰」によって生かされている

「なぜ」生かされている

といった具合に、「生かされている」は外的要因が前提で使われるのが通常です。これは、比べる対象が必ずあり、常に比較対象によって成立します。

ということは、外的要因によって「生」の価値観が決まっており評価基準は内側にありません。また、「生かされている」という響きは、どこか他力本願的な感覚となります。

人間社会という「縛り」によって覆われた世界での自分。本質(本当)の自分と違ってきます。当然、その事で「生」に関する内面と外面のギャップがおきるので、フラストレーションやストレスといった身体的変化となってしまう場合があります。

 

いっぽう、「生きる」という言葉には、

「自分」のために生きる

「目標」のために生きる

といった、内的要因が前提となり、比較対象となるのは「自分」となるわけです。「自分」が基準となるわけですから、自らが課したテーマや思いによって達成感や充実感。その様な「感じる」という表現で表すことができます。同時にフラストレーションやストレスにもつながります。

 

 

私たちは、人間社会で生きていくことから逃れることはできません。その為、常に「生かされている」感がつきまとい精神を食い荒らします。だから、その影響で苦しくなったり、生きづらくなってしまう。信仰や宗教観によって、ある意味「現実社会からの逃避」を得ることで心の安住や安定をはかる。そうやって、どうにかバランスを取っている人もいるわけです。

 

学校や会社、親や兄弟姉妹、友達や恋人。

「人と関わる」ことが絶対の人間社会だからこそ、純粋に真っすぐに「生きる」を貫けない。そして苦しくなる・・・。

でも、でもです。誰にでも「欲」があり、その欲は「生きる」の重要な要素となっているわけですから、人間社会において「生かされている」といった単純なもので計れることでもない。

 

結局は「心のバランス」がとれていないと「生きづらい」

「生きている価値」は誰が決めるのか。

「生きている意味」はなんなのか。

この「」の中をもう一度、よく見て下さい。これらは内面要因なんですよ。

他者による他者からの評価や価値観設定が「自分の生」ではなく、「自分自身が自分らしく」の自己評価や価値観が重要となる。

 

今回の「生きる」と「生かされる」は、究極のところ、乱暴な表現ですが「他者が何と言おうが関係ない」「自分は自分」「誰のためにでなく自分のため」

自分に正直であれ

わがままであれ

そんな「生き方」をしても良いってことなんだと思います。

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