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自分の体とは?

閲覧数1007 コメント数11 person退会したユーザー edit2017.11.28

はじめまして。
ちょっと面白いお題と言いますか、皆さんのご意見を伺ってみたいことがありトピックを作らせて頂きました。
「自分」とは何か。と考えたときに名前やら性格やら色々候補が出てくる中の一つに「体」があると思うんですが、その「体」について。
仮に移植技術がすごく進化したと想定して、自分の腕を誰かと取り替えたとして、それって誰かの腕がついていても「自分」ですよね?
じゃあ、今度は誰かの心臓を自分に移植したとして、それって誰かの心臓が移植されていても「自分」ですよね?
では最後に、仮に誰かの体全てのパーツを自分に付け替えたとして、それって「自分」なんでしょうか?
よかったら皆さんのお考えを聞かせてください( ´ー`)
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コメント一覧

  • refresh約6年前
    退会したユーザー
    その答えは文化によってケースバイケースです。他人文化では同じように役に立てばまだ自分になります。家族文化では歴史が異なるからもう自分ではありません。
  • refresh約6年前
    退会したユーザー
    「テセウスの船」の思考実験に似てますね。

    「テセウスの船」の場合は、船の部品を全部入れ替えても同じ船といえるか、という思考実験ですが、このトピックの場合部品を入れ替えるのは自分の身体であって、そこには「自分」という意思があります。腕や足、ひいては内蔵などすべてをほかの人間のものと入れ替えても、「自分」という意思があれば自分の身体と変わらないと思います。

    「我思うゆえに我あり」のデカルトは「自分を含めたすべてが嘘だとしても、まさにそのように疑っている意思が確実ならば、すべてを疑っている自分だけは存在を疑いえない」と考えましたが、まさにそれは真実だと思います。自分の身体の部品すべてを入れ替えても「これは自分の身体か?」と疑っている自分が存在すれば、その疑っている『意思』が自分を自分たりえると私は考えます。
  • refresh約6年前
    退会したユーザー
    皆様ご回答ありがとうございます。
    一応トピ主の私も考えも載せてみます。

    ですが、自分の体とは何か。とお題を出しておいて非常に恐縮なんですが、これについて私の答えはありません。強いて答えるとするなら、意味なんてありません。というのが答えです。
    さらに、自分とは何か。という問についても、自分なんてありません。というのが答えです。
    私たちが意味をつけられるもの全て、本当は意味なんてありません。
    自分とは何か。→自分なんて本当はありません。
    他人とは何か。→他人なんて本当はありません。
    死とは何か。→死なんて本当はありません。
    いやいや辞書にはいっぱい言葉があって、その意味が載ってるでしょ?って思いますか?
    辞書に書いてあるからその言葉はそういう意味なんじゃなく、辞書に書いてあるからその言葉はそういう意味なんだとあなたが思ってるからそういう意味なんです。
    つまりその言葉の意味は最終的にあなたが意味付けしてるのであって、あなたが意味付けしなければその言葉に意味はなく、その言葉すら本当は存在しません。あなたが言葉を知らない生まれたばかりの赤ちゃんだったころ、あなたの世界ではそんな言葉は存在していなかったはずです。
    私たちは言葉の範中を超えられません。
    私たちの世界は知っている言葉の範中で構成されています。
    全てはもともと一つの意味のないものを、言葉によって細分化して、世界という幻想を作ってます。生まれたばかりの赤ちゃんの視点で考えてみてください。目の前の赤い謎の物体、赤ちゃんからみてその世界にリンゴなんて存在しますか?リンゴはおろか、全ての言葉の意味を知らない赤ちゃんにとって、それはそれとしか言い様がありません。全てがそれとしか言い様がない、故に全ては一つ。元々は意味の無いものなんです。言葉で細分化される前は。
    唯一ただひとつ有るのは言葉では表現できないもの。言葉を超えたもの。強いて言葉で表現するなら「全て」又は「それ」。
    人は言葉を持っているが故に気づきにくいところがあります。
    例を出します。
    一本の木製バットに虫が止まっている。
    私たち人間にとってそれはバットですが、言葉を持たない虫にすれば木に止まってるも同じ。人間がバットという言葉で木を細分化して意味付けしてるだけ。
    もっと言うとそれは木でもなく地球の一部です。人間が勝手に木という言葉で地球を細分化して、あたかも地球とは別のものだと意味付けしてるに過ぎない。
    さらに、地球というのも銀河の一部を地球という言葉で細分化してるに過ぎない。
    そして、銀河というのも宇宙の一部を銀河という言葉で細分化しているに過ぎない。
    では宇宙とは何か。
    私たちは宇宙を包括しているものの言葉を知らない。つまり言葉では「それ」や「全て」としか言いようがない。言葉を超えられないのです。
    みんな生まれたときからたった一つの「それ」を五感によって受信して、言葉という記憶でどんどん細分化してはひとつひとつが意味付けされた「世界=幻想」を作っていく。だから世界はみんなが独自に作っているものだし、ひとつとして同じ世界はないんです。
    誤解しないでほしいのは、言葉で細分化して、自分とか体とか「全て」について意味付けすることが無駄だとは思ってません。むしろこんな素晴らしいことはありません。全て幻想とは言え、楽しいことも苦しいことも幸せなことも不幸なことも、全て意味付け次第ですが色々な体験が味わえます。
    因みにここでは「私=自分」はTARAと名乗ってますが、名前も結局は言葉による意味付け。いくらでも変えられます。「私=自分」を構成している名前なんてその程度のもので意味なんて本当はないんですが、、昔飼っていた猫の名前なので愛着を持っていますよ。
    以上、長々と書いてしまいましたが、所詮言葉で書いた内容です。書いた内容をどう解釈し意味付けするかは皆様次第です(^^

    本当に長々すみません。
    哲学?には共通認識として決まった「正解」はないと思います。上記の長文も一つの考えに過ぎません。そんなの考えるだけ無駄!と思えるかもしれませんが視野を広くして考えてみると様々な「悩み」すらも解消しうる力があると私は思っています。
    お付き合い頂きありがとうございました。
  • refresh約6年前
    退会したユーザー
    「君の名は」は、輪廻転生のお話でしたね。前世、現世、未来世に、共通する自分がいて、身体を替えて、何度も生まれ変わるお話でした。
    こちらだと、身体が変わっても、自分は同じ自分でしたね。
    自分の核になるのは、輪廻転生する魂でしょうか。

    一方、人間の心の動きすべてを、脳の働きの結果と考えるなら、脳が失われたら、自分じゃないでしょう。
    脳死は、人の死ですね。

    「君の名は」で言うなら、脳死になっても人の死にあらず、魂が身体から離れたときに、その生の死となるでしょうか。
    自分と言う存在は、永遠に続き、
    言わば、身体は魂の乗り物と言うことになりますね。

    いろんな捉え方があると思いますが、自分の心に響く生き方をすれば、いいですね。
  • refresh約6年前
    退会したユーザー
    誰かの記憶をもらったとして、それは”過去”であり、”今”からは自分のものなんですよね。
    こんがらがりますが、面白いですよね。

    自分とは何かとは、永遠の問いですね。
    でも、自分と対峙し、自分を理解することは大切なことですし、生きる意味…人生のテーマな気がします。

    他人がいるから苦しくて、
    他人がいるから楽しくもある。

    体という器をえて、今生きている意味がそこにあるかもしれません。
  • refresh約6年前
    退会したユーザー
    oAoV様
    ご回答ありがとうございます。
    君の名は。良い映画ですよね。
    映画では体が入れ替わってしまってもお互いに自分の体の見た目が変わったことを鏡等を見て認識していました。つまり自分を構成していた要素のうち「名前」「体」が変わってしまったと自ら認識していたわけです。「性格」は変わってませんでしたね?ではその名前や体ではないところの「自ら認識していた自分」とはなんなんでしょうかね?

    難しい疑問ですよね。
    そういう意味では君の名はも難しく理解し難い映画だと思い出ますが、それでも何とも言えない感動がありますよね。
    きっとこの疑問の先にある答えが視聴者に何となく伝わって、自分と他人があるって素晴らしい、生きてるって素晴らしい、と思える映画になってるんだと思います。
  • refresh約6年前
    退会したユーザー
    おっくん様
    ご回答ありがとうございます。
    もし誰かの記憶を自分にコピーしたとして。記憶って過去のことだと思うんですが、「いま」過去のことを思い出したり考えたりしてる自分ってなんなんでしょう?過去のことに「良い思い出」や「辛い思い出」と意味付けしてる「いま」の自分ってなんなんでしょうかね?

    あなたと私って素敵ですよね。すごく共感します。自分と他人がなければ苦しいことも無くなるかもしれませんが楽しいこともないと思うので。ひっくるめて素晴らしいですよね。
  • refresh約6年前
    退会したユーザー
    changethepast様
    ご回答ありがとうございます。
    「考えている自分(以下「それ」とします。)」の無限ループ。
    まさにそうなりますよね。
    言葉では言い表せないそれ。
    それはどまでも消えない。
    自分とは何かと考えているそれはどこまでも残ります。
    体が全て変わってしまっても、きっとその事を認識するそれがありますよね。
    だとすると、自分とは必ずしも体のことではないのかもしれませんね。
    じゃあ、それってなんなんでしょうかね?
  • refresh約6年前
    退会したユーザー
    なんか、「君の名は。」という映画を連想してしまいました。
    哲学とかは、難しくてわからないけれど、
    君の名は。のような、全てが入れ替わってしまう状態なら、それは自分ではないと言えるのだけど、

    移植などの方法で全てが変わった場合は、
    自分だと認めざるを得ない気がします。

    自分で書いてて、どう違うんだろう?ってわけがわからなくなります。笑

    なかなか難しい質問ですね。
    楽しいです^^
  • refresh約6年前
    退会したユーザー
    哲学的な質問ですね。

    自我がどこにあるのか。
    心はどこにあるのか。
    魂とは何か。

    脳を替えた場合、それは自分か。
    記憶をコピーして別の脳に移したら、それは自分か。

    臓器の移植を受けると提供者の記憶の一部も受け取ることがあるという話もあります。
    生物は、死ぬと死ぬ前よりも少しだけ軽いという話もあります。

    体とは、魂を移す器に過ぎないのか。
    それとも。

    面白いですね。


    ただ、あなたと私、私とあなたを認識できる素敵なものでもあると思います。
    自分が自分である証ですね。
  • refresh約6年前
    退会したユーザー
    こんにちは。
    面白いお題ですね。私の答えは下記のとおりです。

    自分の体は自分ではない。
    しかし、「自分の体は自分ではない。」と考えているのが自分である。
    そして、「しかし、「自分の体は自分ではない。」と考えているのが自分である。」と考えるのも自分である。
    ・・・(以下無限ループ)

    いかがでしょう?
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