癒着が減ると、情が減る。そして愛情が減る。
visibility2,090 edit2017.06.24
私は、仕事をしていた時、周囲の人たちが大好きでした。
ノルマに苦しんで欲しくなかったし、今の状況で空気が悪くなっていたことも嫌だった。
毎日会う人達、毎日のように接する人達。
何を言われても、何に傷ついても『自分がその人達を好きでいるから、耐えられる。頑張れる。自分がある程度なんとかしないと。』と、いつも思ってました。
それで、幸せでした。
でもその幸せに違和感を覚えて始めて、いつしかそれがどんどん明確になっていったことも、薄々日々自覚していました。
不思議な話、親との関係にも、職場での事こととは関連性があります。
職場の人達、好きならば自分が頑張って、笑いを取ったりして、悪口みたいな酷い言葉でも、笑って過ごしたり耐えたら、その後の自分の態度で濁しちゃいけない。仕事だってやりにくくなるんだから。
もしなんか言ったら、なんて思われるのかな?もし私が本音を出したら…。
と言う気持ち。
親と接する時の、どうして親なのに分かってくれないの?
〜ちゃんのところみたいに、もっと信頼してくれたら良いのに。
疲れている私に向かって、よくそんなこと言えるよな。でも、本音言うと傷つけちゃうし、面倒だし、流すようにしないとな。自分、耐えないと…。
職場の人にはなんだかんだ好きで愛情があるように見えて、親には好きでは無いけど気を遣っている、そんな風に感じられるかもしれませんが、根本的な問題は同じです。
それは『近すぎるゆえに起こる癒着』
そんな癒着を取ると、情でしていたら行動や気持ちが、ちゃんと『愛情』に変化させることが出来る。
自分の為に、〜さん敢えて攻撃的に捉えられる言葉を発していたんじゃないか?
親は心配という愛情から、私に言ってくれていたんじゃないか?
そうすると、相手を許すことが出来る。
すごーく時間がかかるけど、そうすると、誰でもない自分の為に、自分が楽になれる。
大抵いつも思うことは、親だから〜してくれていいのにそうしてくれないし、耐える。
職場の人で、同じ会社にいる者としては、好きだし、なんかあったら、仕事に支障が出たら面倒だし、とりあえず耐える。
『耐える』という結果は同じだし、毎日行く会社、(今は一人暮らしだけど)毎日顔を合わせる家族。
近ければ近いほど、マイナスなことは強調され、摩擦は生まれやすくなる。
それは、近過ぎる故に起こる摩擦。
近過ぎることは、距離的なことが大きいけど、心理的な距離がもっとも大きく強く影響する。
近くにいなくたって、例えば毎日LINEしていたりしたら、距離は近い。
それが良いことであるならば、何も問題ない。
相性が良かったり、良い関係性を気付いていれば、の話だけど。
これが、自分にとって苦行のようなものになったり、不快を示す感情が現れたら、癒着していて、一旦離れて俯瞰する姿勢を取る。
俯瞰が、先にもあった愛情に生まれ変わる。
時間を置いて、相手を許すことによって。
そうすると、その時の出来事をいいことに書き換えたり、相手を許すことになるから、これまでの人生が苦しくなくなる。
だって、違う人間なんだから、しょーがない。
そういう見方や価値観だってある。
愛情表現は、実は沢山ある。良い表現方法ばかりじゃないんだ。人の数だけあるんだ。
そう思うと、楽になれた。でもだからと言って、その人のことを、大好きになったり、その後関係を敢えて持つ必要もない。
自分の為に、そうする。
この方法は、やるべきものではないし、強制でもない。
長い時間がかかることもあるから、焦ってやることでもない。
私は、自分のこれまでを受け容れたくて、楽になりたくてもこの行動をした。
そんな行動をする前は、『職場、または家族なんだから、〜して当たり前。だかは〜すべき。または、私が耐えるべき。』となる。
自分の人生において、そのすべき、が本当にすべきなのか?近すぎているから、盲目になってないか?
違う人間として、これは家族もそうで、1人の人間として見てみて、『まぁ人だし、間違えるよね。』『まぁ人だししょーがないよなぁ。』と言えないか?と考えること。
私は、親とも職場の人とも、とても近くなりがちなところがあります。
なんだかんだ人に共感しちゃうし、人と話すのは好きだから、私の性格はこれが起こりやすい。
前の仕事は、もうみんな好きな故に究極の『癒着』でした。自覚がありつつ、離れがたい気持ちも大きかった。
でも、離れないと冷静に見れない状況でした。実は癒着故に我慢していた部分、本当はいつも言ってくる言動が本当は、嫌いな人もいました。
でもなんだかんだ、根本が『好き』な気持ちは変わらなかったけど…。
辞めてみて、離れて、癒着が取れて。
純粋に、私も相手も、嫌だと思ったことはあったけど、お互い人として好きだったんだ。そしてそれは親との関係にしてもそう。
心も距離も、近過ぎて、求め過ぎてた部分が自分にやっぱりあったなぁというところと、人として見て、いろーんな本を読んで、『全てが愛』みたいなことを目にして…
傷ついた事実も言葉も変わらないし、消えた訳ではなくても、時間が経ち、記憶が薄れていくので『私が受け容れ難い形ではあったけど、どれもこれも全て愛情だったのかなぁ』と。
職場の人、家族、これまで会った人を思い返しながら、思いました。
そう思うと、イライラしていたことや、恨みとか、嫌な気分とか、記憶とは薄くなり、楽になった。
やっぱりそーゆーマイナスな感情は、持っていると非常に疲れる。
客観的に見た時に、私もあの人、結局人なんだ。同じなんだ。自分にもあの人にも、確かに愛情があるんだな、とか思うと(時間の経過にもよるけど)楽です。
ちなみに、親はやっぱり一人暮らし始めて何年かしないと難しいところがありました。
親からもらった常識やお金の概念、そういったものにここまで影響を受けているのは、やっぱり色々な本を読んだり機会を得て、改めて実感するキッカケを作っていて、様々な意味で『癒着』を離して、『俯瞰』するって大切だなぁと思います。
親の考えは、ある意味で先人の知恵、と言いますが、それに全面に従っていても、やっぱり時代は動いてる。
お金に関すること、世間に関することは、この話とはずれるけど、これらに本当に気付くのに、私は時間がかかりました。むしろ遅過ぎる位かかったかも?
やりたいこともあるし、挽回する意味でも、今回のこと、親から植えつけられた意識などは忘れず、尚且つ同じように繰り返して、また自分を苦しめないようにしたいと思います。
私もまだまだ始めたばかり、癒着ではなく、俯瞰して、そして直感や本心に従って、そして親から言われた常識だけに囚われず、生きて生きたいと思いました。
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