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何をしても無駄に感じる

閲覧数795 コメント数5 person退会したユーザー edit2019.05.29

小学生の時『死ぬってどんな感じだろう?』と想像したことがあります。
まずは目が見えなくなるから目を閉じる、眠るのではなくて聴覚も感覚も、自分という意識が消えて無くなるイメージを続けていると突然吸い込まれるように意識が傾きました。
奈落の底に落ちるようにドンドン落下して、自分が小さくなって本当に消えて戻れなくなる感覚がして鉛みたいに硬直した手足をなんとか動かして目を開けることが出来た。
全力疾走した後みたいにバクバク鳴る心臓と感じたことない恐怖と虚無感。
『これが死で、私は思い込みだけで簡単に死ねるのか。』
途端、大概の事がどうでも良くなった。
どんな学校に行って、どんな人と出会って仕事しても結局最後には無くなるなら人生が死ぬまでの暇潰しに思えて仕方ない。
それでも生まれたからには好き好んで死にたくないし、家族もいるし生きる為には仕事もしないといけないけれども只やり過ごす様に生きるのがとても面倒くさい。
特別なにか打ち込めるモノも目標もなく、最終的なゴール地点だけ見えてしまって足が動かない、平たく言えばこわいです。
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コメント一覧

  • refresh約5年前
    Kukka 男性
    死は、私という意識が全てなくなる事…そうだとすると、確かに生きる事に対しての原動力が削がれる感じがしますね。何をしても、結局自分は無となってしまうのですから。

    ただ、少し想像してほしいのですが、それは果たして本当の死なのでしょうか?
    ここからは人生経験がまだまだ足りない私が、人生の諸先輩方から聞いたお話を元に書いていきます。

    肉体の死は確かに、この身体と一対になっている意識との分離が起こるので、「私」でなくなる事は確かです。ただ、意識…もっとはっきりさせるなら、魂は次の世界へ向かうようです。「肉体を持った私」は存在しないけれど、「肉体から離れた私」は存在するようです。
    では、何故私達が肉体を持って生まれてきたのか?それは、肉体があるからこそ体験できる感覚を得たいが為だと聞きました。oimosanさんの感覚も、肉体という器がなければできないものです。肉体を持つという事は、自分や他者という存在を内外からの刺激で感じ、思考を繰り返します。これだけでもの凄い情報量なのです。この感覚を持って、次の世界に向かうそうです。

    …とは言っても、今を生きている私達は、上記の事を生きている中で証明する事は出来ません。ですが、いつの時代でも死の先が内容の差こそあれど語られるという事は、人智を超えた何かを私達は既に感覚として分かっているのかもしれません。

    「西の魔女が死んだ」という本があります。私はタイトルに惹かれてこの間読了したのですが、まさに、生きる事と死ぬ事についての描写がされています。読まれていなければ、是非。何かヒントになるかもしれません。
    生きる上で死を意識する事は、私達に許されている意識・感覚の1つです。恐怖や虚無感を感じる事自体は悪でも何でもなく、これも1つの意識・感覚です。
    ただ、どういう意識であれ、1つの意識に囚われて行動が制限されてしまうという事は、「今」を生きていない…地に足がついていないという状態です。そういう場合は、何かの強烈な刺激ではなく、自分の肉体がしている事に自分の意識を戻す必要があるのだと思います。地味ですし、速攻性があるとは言えませんが、自分の感覚を持て余してしまう人は、訓練するしかありません。
    後は、死生観について出来るだけ多くのメディアにあたるのも1つかもしれません。珠玉混合あるため、自分の感覚を大切に守りながら、自分の意識と照らし合わせて適度な距離を探るのも手だと思います。
  • refresh約5年前
    退会したユーザー
    nakisunaさん、コメントありがとうございます。
    確かに過去から未来へ「文化・思い」は受け継がれているからこそ今が在り、世界はずっと続いているのだから広い目で見れば無駄ではないのかもしれません。
    しかし当然ながら私と言う「意識」は死んだ後は無くなるのです。
    人生を無駄にする・しないと言う生きている間の「行動」も、喜怒哀楽も、例えば誰かに影響を与えたりしたならば「受け継がれた」と言う意味では無駄では無いのかもしれないけれど、私は私が消えた後の事など知ることは出来ません。
    私は私の感情も記憶も体験も、私が大切にしたい物を私が死ぬ事で私が無くしてしまうことが怖いのです。
    結局無くなると感じるゴールよりも、過程に意味を見出だす為に教えて下さった考え方ですが「私の何かを誰かが受け継いでも、何も遺せないことに恐怖を感じている」訳ではないので今少しよく分かりません。
    今の自分は何をしてもゴールがちらついてしまうので、目移りしない程に強烈な何かが見付かれば、過程を楽しめるようになるでしょうか。
  • refresh約5年前
    退会したユーザー
    ぽぽぽさん、コメントありがとうございます。
    確かに限りがあるからこそ、感動したり、何かを愛したり、それを尊い事だと感じるのだと思います。
    ただ私の場合は例えどんな素晴らしいモノを見て感動しても、「死」と言うタイムリミットがそれを際立たせるのではなくて熱を冷ましてしまうのですが、感じ方が浅いのでしょうか。
    なにか、タイムリミットがスパイスに感じる程に好きになれるものを探してみようと思います。
  • refresh約5年前
    退会したユーザー
    「死」は「タイムリミット」だと思います。
    制限時間があるからこそ、人は何かに夢中になったり、感動したり、
    誰かを好きになったりすると思います。
  • refresh約5年前
    退会したユーザー
    こんにちは。元中学校の先生です。人生のゴールが死なら、無駄なのではという考え。私も考えたことがないわけではないです。確かに私たち生物は有限ですから、いつかは死にます。でも、人間は思考する能力を持って生まれているわけですから、一生を無駄にするのもしないのもその人の生き方によるのではないでしょうか?過去生きてきた人たちがこの世界を作り上げてきたからこそ、今の私たちの生活も人生もあると考えれば、死んでしまうから無駄という考えにはならないような気がします。大切なのは、ゴールだけを見つめるのではなく、ゴールまでどう生きて過ごしていくかを自分で創造していくことではないでしょうか?
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