人に素を出すって怖いよね。
edit2016.06.04 1,359
お久しぶりです、キュウです。
最近、ココトモハウスの看板スタッフを卒業させていただきました。保育士の夢を追いかけて、次のステップに進もうと思います。ココトモハウスでお世話になった皆様、本当にありがとうございました^^♪
これからもココトモのブログは個人的にたまに更新するつもりなので、ココトモハウスではあまり会えなくなっても、こちらの方でも宜しくお願いします〜✨✨
さて、キュウのカジュアルブログ第11段の今回は、そんなキュウが最近感じていることを、なんとなーくつらつらと書いてみようと思います。(海くんのブログに触発されて、自分の思っていることを目的もなく書きだしてみたくなりました。笑)
よろしければお付き合いください(*´-`)♥
私の短所
キュウは、自分はわがままな人間だなあと思ってます。
その人にとって本当に必要だと思ったことは悩みに悩んだ末に鋭く指摘するし、皆を愛したいけど、その反面結構ドライで。
何がドライかって、自分にできることはするけど、自分にはできない・能力の範囲外だと思ったことはしないし、自分の時間だって欲しい。プライベートな時間は絶対取りたいし、一人の時間だって大切だったりとか。
「ココトモハウスのとくべつな、たにん」のいだっちさんと、ちょっと似ている部分があるのかも?
でも、キュウの場合は自分の将来や相手の将来も見据えて、話を聞いた方がいいのか、自立を促した方がいいのか、どういう接し方をしたらいいのか考えているつもりなのだけど。
それで、”話を聞く”ことをないがしろにしたらただの「意見の押し付け」になってしまうし、でも自分に言いたいことがいっぱいあると”話を聞く”のが難しかったりとか。
なんだろう、自分は結構矛盾だらけだと最近気付いて、悩みに悩んでいました。
ズバッと鋭く物を言う私
私の悩みの短所のひとつに、元々ズバッと物を言うタイプ、というところがあります。
凄く偉そうに話してるなあ私、とかたまに思うし、このアドバイスが本当にその人のためになっているのかわからない、私のこの性格は人を傷つけるんじゃないか、と、常に悩みに悩んでいました。
スタッフをしている間も、その他のところでも、ズバッと言った後にくる罪悪感が苦手で、私はまだ若いのに偉そうなことを言えた立場ではないとか、この人にとって本当に良いことを言えたのだろうかとか、すごーーーく悩みながら人と向き合っているつもりでした。
でも、スタッフを卒業するときに常連さんに言われたのは、「キュウちゃんにズバッと言われたことでハッとさせられた」という言葉でした。
人を受け入れようと自分なりに頑張っていたのに、結局ズバッと言っちゃってたんだなあ私。と、自分にがっかりもしたけれど、知らないうちに出てしまっていたこの性格を、好きといってくれた常連ちゃん。
まあ、でも多分それは、それなりに信頼関係が作られた後に出た「ズバッ!」だったから心に響いたんだろうなあ。
いつのまにか、短所だと思って隠していたものが隠しきれず出てしまったときに、「そういうキュウさんも良い」と言ってくれる人が側にいるようになっていたことに驚いて、感慨深い気持ちになっていました。
バイトをし始めた時も、掛け持ちを始めた時も、自分のズバッと言う性格とか、食いしん坊なところは隠さずに勤務するようにしてみたら、以外とそのキャラがウケてくれたりとか。
以前、自分の性格を隠しながら働いていたバイト先よりも、今のバイト先の方が断然楽しいし、今の方が(仲間に恵まれているというのもあるけど)自分らしく楽しく働けている気がします。
人に自分を出すことで、「そこが好き」と言ってくれる人を惹き付けられるようになる。
私、最近思うんですよね。
もし私がずっと自分を隠そう隠そうとして暗闇のなかに生きていたなら、暗闇のなかに生きていることが好きな人たちが集まってきたのではないかなあって。
でも、私が自分を認めはじめて、自分のダメだと思ってた部分を恐る恐る出せるようになってきてみたら、意外と「そんなキュウさんが好き」と言ってくれる人が周りにいて。
「私が○○だから好き」ではなくて、「そういうキュウちゃんでも好き」の人がいつの間にか側に居てくれるようになってました。
それは、昔の私にとっては驚きで、とても嬉しいことでした。
「求められる理由」に苦しんでいた
私は多分、いままで自分が人に求められる度に、自分が求められている理由を探してしまっていたんだとおもいます。
例えば、学生時代のまだ教会に通っていたときなんかは「勉強ができそうだから」「優しそうだから」「神様を信じる心が強そうだから」「話を聞いてくれそうだから」、ココトモハウスなら「ハグをしてくれるから」「優しそうだから」「愛に溢れてそうだから」「話を聞いてくれそうだから」。
そんな私のイメージを求めて、そういうのが欲しい人たちが集まってくるんだろうなと思ってました。
そうして「もし自分がそうでなくなったら、自分はもうその人たちには必要ないんだ。捨てられてしまうんだ。」と勝手に思い込んでは、自分の理想的ではない部分を必死に隠そう、捨てよう、としていたり。
まあ、ココトモハウスではちょっと違ってきていたのだけど、学校とか教会とかではずっとそうだったなあ。
そして、例え自分が成長したり視野が広がったりして価値観が変わったときに、そこに違和感が産まれたとしても、人の私へのイメージを優先してしまっていたんです。
本当は、勉強ができないことがコンプレックスだし、優しくない部分だってあるし、神様を信じられないときだってあったし、人の話を聞けないときもあるのに、それを隠そう隠そうと必死で。
そうして否定してきた部分だって、本当は私の愛しい一部なのに、「そうでなくなったら皆に捨てられる」との強迫観念が強くて、隠して隠して見ないふりしてました。
苦しい中でも出してみる勇気
まあ、隠してるつもりでも隠せてなかったかもしれないんですけどね。(笑)
いやー、矛盾だなあ私。
当時は、人にありのままの自分を受け入れて欲しいと願っていたのに、私自身が私の一部を否定してどうするんだろ。今は、そんなの、なにか間違ってる気がするんですよね。
何が間違ってるかって、隠そうとすれば、人は「そこは触れてはいけない部分なのだ」と感じ取って距離をおいてしまうじゃないですか?そうすると、もはやそこの部分の素のままの自分を見てもらう機会はなくなるわけですよ。
「見てもらえない=受け入れてもらえるかどうか判断する機会を相手に与えない」
ですよね?だって、見てないものを判断できる人なんていないと思うし。
つまりは、相手に素のままの自分を見てもらった後来るはずの「受け入れてもらえる」「受け入れてもらえない」という結果を拒否して、見ようとしていないことになりますよね。
そうして、受け入れてもらえるのかもらえないのかわからないままモヤモヤした状態がずっとずっと続いていることになります。
そうして、受け入れてもらえるかもしれなかった機会を失うわけです。
その結果。。。
あー、なんてもったいなかったんだろ。
もっと、楽に、素のままで生きていれば、「そういう私が好きな人」に出会う確率もあがったんじゃないのかなあ。
なんて、今考えても仕方ないですよね。
過去にそういう時期があって、それに問題を感じて改善できた今があるからこそ、こうしてブログにすることができるわけだし、今の自分はその恩恵を受けて僅かでも自信を持てているわけで、そう考えると、むしろ、最初から無意識にそれができるよりも、苦労して身につける時間と忍耐力をもらえたことに感謝したくもなるのだけど。
「受け入れてもらえるかどうかわからない」恐怖はあれど、恐怖を抱えたまんま、恐る恐る素を出してみる事で広がる視野は、私にとってとても大きかったから、「怖くても怖いまんま行動する勇気」は、出してよかったなあと、今となっては思います。
恐怖は本当は行動の妨げにはなるものではない
そう。
対人関係だけじゃなくて、いろんなことに言えると思うのだけど、一歩踏み出すのが怖い時って、絶対だれしもあると思うんです。
そういう時は、恐怖があってもいい。失敗してもいい。
でも、それは、本当は行動の妨げになるものではない。
恐怖がありながらも、失敗した過去がありながらも、行動に出ることはできるし、希望だって持てるんです。本当は。
恐怖に目を向けすぎて行動出来ないのはもったいない。
そして、恐怖は無くならない。
恐怖は、あります。不確定なものや、目に見えないもの、知らないもの、感じたことないもの、結果がわからないもの。恐怖を感じる要素は日常に溢れていますよね。
最初は、「怖くなくなってからー」「自信がついてからー」なんて思ってたけど、そんな時なんて待っててもこなかったんですよね。恐怖は、いつだって心のどこかに潜んでいるんです。だって、行動しないと結果がわからないのだもの。
恐怖を感じながらも、「きっと大丈夫」と希望をもって前に進むことが大事だなあと、キュウは思っています。
あれ?ちょっと脱線しちゃったかも(笑)(笑)
でもちょっと、「恐怖」について掘り下げたくなっちゃった。笑
もう1項目だけ「恐怖」について、書かせてください^^
「あれ?怖い気持ちだけじゃん!」
キュウは、いつだったか忘れちゃったけど、目から鱗が落ちたときがありました。
なぜだったか、殻に閉じこもっていた自分が前に進みたくて、でもどうしても怖くて一歩踏み出せなくて。という状況だったとき。
怖くて怖くてたまらなくて。
でも、悩みに悩んで自分と向き合った末、あることに気がつきました。
「あれ?今目の前にある問題って、怖い気持ちだけじゃん。」
そう。
そのときの私には、行動できる環境や、能力はあったんですよ。
「成功するかどうか分からなくて怖い」というだけで、踏み出してみることができる環境も能力もあったんです。
誰も「ダメ」と言う人はいなくて、踏み出す環境も整えられてきていて、ただ、私が「成功するかどうか分からなくて怖い」と尻込みしているだけの状態。
「ん?これって、自分の怖い気持ちさえ気にしなければ行動できるんじゃないの???」
はい、せいかーい!!ピンポンピンポーン!!
そのときにタイムスリップできたなら、大正解!!と褒めてあげたい(笑)(笑)
なーんて、冗談はおいといて。
怖い気持ちと行動って、切り分けて考えられるのではないか?と、ふと気がついた瞬間があったんです。
だって、怖くても私は立って歩けるし、行きたい場所に行くことができる。口も動くし、日本語を日常会話レベルで話せるだけの知識はある。
行った先に何が待っているか分からなくて怖いけど、それはそこに行かない理由にはならない。
だったら、今は怖くてもいい。怖いならもう「怖い怖い怖い!!!」と発散してしまいながらでも、行動に移してみなさいよ!!
と、自分の尻を叩いたことがありました。
そうして行動すると、意外と大丈夫で。
恐怖って、結果がくる直前がピークで、結果がきた後は「絶望」と「達成感」のどちらかにしかならないみたいなんですよね。
そのどちらも、もう出た結果なのだから受け入れるしかないもので。
そして、ある程度時間と心の余裕があれば消化してしまえるんですよね、結果って。だったら、「恐怖」という名のいつまでも続くモヤモヤを一つの問題で抱えるよりも、「絶望」か「達成感」のどちらかの結果を受け取って消化してしまった方が早いんじゃないの?なーんて思ったのです。
そこからは、「恐怖」は感じていても、タイミングが来たらさっさと行動に移せるような活発な?人に変わっていきました。
多分、ココトモに飛び込めたのも、「怖くても怖いまんま行動する」というスキルを磨いてきたからだったのだと思います。
だって、男性と1対1で面談なんて、当時の私にとっては本当に怖くてたまらなかったですから。(そのときのエピソードはこちら)
それでも、私には「ゾノさんにライターチームに入るための面談申し込みメールを送る環境」があって、「ココトモハウスに行くお金と足」があって、「面談で人と話す口」も、「日本語を話す能力」も、あったんですよね。そこにある妨げは「恐怖」しか無かったわけです。
だから、今こうしてブログを書けているわけだけれども。笑
恐怖は、本当は行動の妨げになるものではない
これは、臆病で内気だった私が、恐怖と戦いながら、恐怖の中でもがきながら身につけた、生き方の一つです。
おわりに
なんか、恐怖の話になっちゃったなあ。笑
「短所を受け入れてもらえるわけがない」
という思い込みからくる恐怖?について、怖くても踏み出していいんだよ、と背中を押す意味を込めようかなあ。笑
過去の自分に向けて。
そして、読んでくださった皆様に向けて。
何か心に伝わる物があるといいのだけど。
(私なんかの文章でそんなこと思うなんておこがましい、という気持ちもあるのだけど、それは傍においといて。)
では、また、時間ができたら書きにきます^^
キュウ
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