言いたいことは、言ってはいけないこと。

先日、『子供は欲しくない』という発言を言うと、周りからのバッシングにあったり、人から否定的な意見を言われる、なーんて記事を見ました。

分かる。結婚してる人ではないけど、分かる。

別に、子供を産むことを否定しているわけでもないことも分かる。

不妊治療に関して、別に何か言いたいわけでもない、それも分かる。

妊娠した友人を、素直に喜べないって、モヤモヤもそう。

あんまり人に言えない。

【人の幸せとか、おめでたいことは喜ぼうよ!】

【子供は作ろうよ〜!】とか、、、

その意見は、どちらかというと、『常識』だ。

結婚はするもの。子供は作るもの。

そんな概念は、ほとんどの人の中に当たり前のようにあって、それが可能な年代である間か、もしくはその年齢以上であれば、知り合いでもそうじゃなくても、『なんでそうするべきなのに、そうしないの?』って押し付けを受けることは多い。

周りくどく言ってくる場合もあるから、要注意だ。

と言うか、『注意しなくても良い、私は別に気にしてないし大丈夫』と自分自身信頼出来たなら、それはもう素晴らしいスルースキルなんだけど、中々そうもいかないことが多い。

常識は、時に人を傷つける。常識は、自分を罰する。

それは、誰より自分が『常識から外れない』を意識しているせいもあるけど、それでも、元々自分の中にあった『常識』をもし一旦外せても、周りも一緒に外れるわけじゃない。

追いかけてきたり、思い出すようにまた自分に刷り込んできたりする。

常識から外れたこと、常識通りに思わないことは、言いにくいけど言いたいことだ。

子供を持つのは自由だけど、私はいらない。

結婚は自由だから、私はしない。

籍は入れない。式は挙げない。

etc…

今年の夏、ある方が、『俺たち夫婦は、子供を持たないって話し合って、決めたんだ』と堂々と語っていた。

素敵だと思った。

お金を、子供にかける、はたまた自分達の人生だけにかける。

きっと、人生で得るものは変わってくるだろう。

どちらでも良いんだ。好き勝手に選べるわけじゃないけど、まず選択するのは自分達だ。

そして、自分の希望が『子供を持たない』なら、そう言っても良いし、それを尊重しても良い。

周りがとやかく言うことはない。例えそれが、親だとしても。

前に、恋人と別れた時にとやかく言う女子達は割と多かった。

『えーなんで別れちゃったの〜?結婚すると思ってたのに〜』

別れぐらい自由で良いじゃないか。

離婚の選択だってきっとそうだ。

親の離婚をなんとも思わないか?なんて聞かれたら、そうだと即答出来ないけれど。

友人の離婚とか、もし身内であったとしても、それを『いやいや、あり得ない』と思ってはいけないんじゃなかと思う。

離婚の話とかになると、少しややこしい話になるかな?家族の離婚とかになると、また少し話は違ってくるけれど…。

〜したい。

自分はこうだ。

これが嫌だ。

〜したくない。

どんなに発言の自由があっても、バッシングは多い。世間の意見は冷たかったりする。

もちろん、温かい意見もある。

否定しているわけではないのに、否定されたと思えば、ソッコー悪口やら、非難は来る。

何も、『人を殺しても良い』みたいな発言とか、全てを『イイネ』なんて言うつもりもない。

でも、自分の選択や、感じたことが、例え相手や対象に対する否定的なものだったとしても。

ごめんね。今の私の思いはこうなの。否定でも非難でもなくて、私の本心は、本音は、こうなの。

って、素直に伝えられる人間関係がもし自分の周りだけでも増えたら、楽に生きられる気がする。

ちゃんと目の前の相手を尊重すれば、自分の意見を選ぶ時の言葉も気遣いが生まれるだろうし、嫌な関係を作るような言い方にはならないだろう。

同時に、目の前の相手も、尊重すれば尊重してもらえる可能性がある。

分かり合えない可能性も、すれ違いが起こる可能性もあるけれど。

それでも、同じ意見や、同じ体験をした人が、きっとどこかにいるだろう。

言いたくないこと、言いにくいこと、伝え方の主語は『自分は〜』にすれば、単なる一意見だ。

一意見を否定されないくらいの自由はあって欲しい。

誰にでも、歓迎されなさそうな本音なんて、いくらでもあるから。

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コメント一覧

全2件
  1. schedule2018.12.26

    ohana

    ぬいさん⭐️
    確かに…常識や一般というものは、大衆を守る為にもあるような気がします。
    それは、安心感も与えてくれるようなものだと。人と同じで、同じような考え方の人に囲まれたら、ある種の『安堵』を覚えるのは当然なことで…。

    でも、イコール本心とはならない。一般的価値観や考え方と、自分がミスマッチになって、それに気付かず苦しんでいることは、とても辛いことでもあるような気がします。

    別に、『世間一般』があるなんて、不思議なことじゃないから…それがあることと『逆のことや違うこと』があること。それが共存出来たらいいと思っています。
    正しいかどうか?ではなく。違っていい、人それぞれ選択したらいい。
    『安心』出来る答えではないことだから、排除したい気持ちもあるでしょう。
    でも、時間は流れて人も変わり、生活も日々移り変わっていくから。そうじゃないものにも、目を向ける機会があったらいいなぁと思います。
    私も、まだまだきっと囚われていて。だからこそのこのブログなんだと思うから。それに無理な従わなくていいことを、自分自身に教えたいと思います。

  2. schedule2018.12.22

    ぬい

    社会的に一般的とされること
    それはいつの時代、どの地域においてもあるんじゃないかなと私は思います
    それが存在することにメリットデメリットはあると私は思います
    共通の認識をその社会で共有することで我々は価値観を共有しつつ社会を円滑に運営できている部分はあると思います
    その共通の認識ということはほとんど無自覚的に自分の中に備わっていくものなんじゃないかなと私は思います
    そしてその共通の認識をもっていることで我々は社会のなかでいろんな判断をその基準に沿って行いそれが安定した社会をつくっている
    そういう部分はあると思います
    逆に言えばそれは無自覚に覚えた価値基準なのでそれについて多くの人は考えもせずにそれが正しいことだと考えているということなのかなと思います
    そしてその価値基準の異なる相手に遭遇したときに深く考えずに無自覚な価値基準で相手を判断してしまうのかもしれません
    社会的な生き物である以上その無自覚な価値基準をもたない人間は存在しないように私は思います
    だからひとつづついろんな価値に気づき
    いろんな考え方を認めたり考えたり批判したりすることを意図的にやる機会がなければ
    我々は社会的な価値基準にとらわれたままなのかもしれません

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