完成系が嫌い

こんばんは。ゲスの極み乙女です。

最近ココトモの常連メンバーで紹介して頂き、感謝の気持ちでいっぱいです。結構ココトモに行ってる回数が多いなあと、思いました。その中で学べるもの、得られるものは本当に大きいので、ココトモハウスを立ち上げたゾノさん また、ココトモハウスにいらっしゃる皆さんには、この場を借りて、お礼の気持ちをお伝えしたいと思います。

さて、本日のテーマは”完成系が嫌い”

そもそも、完成系って何なんでしょうね?物が出来上がったから完成系なのでしょうか。それとも、意思がまとまり、目に見える物として認識できるようになったから完成系なのか。。。

世の中の認識からすると、完成系は、プロセスを踏み終わり、人々に認識されるようになった物、気持ち なんじゃないかなと思います。

例えば 自動車のプリウスだったり、アルファードだったり。

人間の心、気持ちの面の完成系で言えば、気分上々だったり、鬱々としていたり。。

どれもこれもプロセスを踏み終わって、認識されていますよね。というのが、完成系なんだと、広く認識されているのではないかと、思います。

じゃあプロセスって何なんだ?

このプロセスを自動車で例えてみましょう。

例えば自動車で言うと、プリウス。

初代から最新型まで、実に時代に合わせた編纂を遂げてきましたね。

この初代のプリウス。この時点で完成系ともなるし、プロセスともなる。

つまり、初代のプリウスが販売されたての頃は、完成系として、認知されていましたが、そのプリウスも、二代目 三代目の 基準となる要素、と、なったわけだと思うのです。つまり、完成系とは、認識と言い切れる要素だけでなく、プロセスとしてなり得る部分が非常に多くあると思うのです。

さらに、先ほど挙げた心、気持ちの面。

鬱々としているのが今の完成系と仮定するならば、鬱々としているのをどのように向き合っていくか、どのように付き合っていくか。と、考えてみると、気持ちの面でも、完成系は無くて、プロセス的な要素が強いな、と、強く思うのです。

時代にしろ、その時の状況にしろ、”完成”というのは、今後のステップであると思います。

世間でいう”完成系”からどのように性能を向上させていくか、どのように向き合っていくか。

このことが、本来の認識の在り方だと思うのです。

だから、僕は、”完成系”という言葉が人一倍嫌い。 完成系(認識)は、常に(時代超え、状況に合わせ)変化するものだから。

皆さんはどう思いますか?

 

 

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