児童虐待って他人事ではないと思って。

先日も、子どもが親に命を奪われる痛ましい事件がありました。この悲しみに、慣れてはいけないと思って、以前から虐待について考えるブログを書きたかったのです。

 

児童虐待ってなんで起こってしまうのでしょう。
みんな赤ちゃんだったのにね。

 

「子どもっておもしろい」と、私は思うのですが、なんで虐待って起きるのかなぁと思ったとき、真っ先に思い出すのは過去「育児ノイローゼ」っぽくなったことです。

 

保育園で0才児クラスの担任だったとき。日中聞いている子どもの泣き声が頭から離れなくて、体はくたくたに疲れてるのに眠れない夜。子どもから離れてるときも開放されませんでした。

 

いっぱいいっぱいになると弱者にしわ寄せが出るのは、推測できるし経験上わかります。子どもの口に離乳食を詰め込んでしまうとか。ちょっと強めに叩いちゃうとか。理性的に叱るんじゃなくて感情的に怒ってしまうとか。

 

でもね、子どもを死なせてしまうまで暴力をふるうことだけが虐待ではないのです。殴る蹴るなどの「身体的虐待」。言葉で子どもを否定する「心理的虐待」。性的に暴力をふるう「性的虐待」。必要な金銭的援助をしない「経済的虐待」。そして育児放棄=「ネグレクト」。

 

たとえば夫婦間が冷めきっていて、子どもが毎日怯えて暮らしていたら、それは心理的虐待なのです。そう考えると案外、虐待って近くにあるような気がしませんか?

 

とはいえ被害者をいたずらに増やしたい訳でも、加害者を必要以上に戒めたい訳ではなくて。

 

虐待は、悲しいことに世代間連鎖することも少なくありません。「それ以外」の選択肢を知らないからなぞってしまうのですね。

 

そうならないために、「自分が被虐待児だったと認識しておくこと」は無意味じゃないと思うのです。傾向と対策を知れば未然に防げるかもしれない。

 

冒頭の、「児童虐待はなんで起こってしまうのか」、に対する答えは一つではないけれど、子どもに対して自分の物差し当てはめようとするから、思い通りにならなくて苛立っちゃったり、追い込まれちゃうのかな。

 

誰だって最初から着脱や食事が一人で上手くできた訳じゃないし、忘れてるけどみんな過程を経てきたのです。いきなり大人と同じこと求めても、無理でしょう、それは。

 

持論ですが、私は子どもって「人間になりかけの存在」だと思うのです。「宇宙人」でもいい。人間から生まれた人間の子どもであり、生物学的にはヒトだとしても、これからたくさんのことを身に付けて社会的な存在になっていくという意味において、自分の物差しが通用する「人間」とは別の「特別な存在」なのです。

 

言葉も通じません。言ってもわからないなんて当たり前。泣くのが仕事です。だって「泣き」は唯一の表現手段なのです。

 

子どもを抗えない力によって殺めてしまう人の気持ちなんて、わからないしわかりたくないけど、歩み寄らないままじゃ大人も子どもも救われない気がして、考え続けています。虐待で苦しむ人が少しでも減ることを祈って。

 

 

以上、ココトモライター・エディターチームのなつめでした(´ー`)

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コメント一覧

全6件
  1. schedule2016.02.26

    なつめ

    ぬいさま

    身近な問題だと捉えてくださってうれしいです!未来がどうなるかなんてわからないから前向きにいきたいですね~ 

  2. schedule2016.02.26

    なつめ

    ゆきえさま

    こちらこそありがとうございます!
    私も子どもがいるわけではありませんが、親になってわかることもたくさんあるし、たくさん子どもを抱き締めてあげたいです(´ー`)

  3. schedule2016.02.26

    なつめ

    鷹れんさま

    いじめと一緒で子ども恒常的に傷つけられていたら児童虐待なんじゃないかと思います。他人が介入すればいいってものでもないと思うので、難しいですよね。

  4. schedule2016.02.25

    ぬい

    子育て
    子どもは泣いて泣いて親を困らせる
    それが仕事なようなもので
    親の都合のいいお利口な子どもはなかなかいないんだと思います
    なので子どもの世話をするっていうの骨の折れることなんだと思います
    子どもが人間になりかけの人間であるのと同時に
    親も親になりかけの親なので
    親が親になるために支えてくれるそんな周りの環境も必要なのかなと思います
    子どもができれば自然に親になれるわけではない
    私も私自身が子どもをもったとき“親”になれる保証なんてどこにもないわけです
    つまり児童虐待はだれしも経験しうる危険性のある身近な問題だと捉えることが大切なんじゃないかなと私は思います

  5. schedule2016.02.25

    ゆきえ

    なつめさん、どうもありがとうございます。
     
    >たとえば夫婦間が冷めきっていて、子どもが毎日怯えて暮らしていたら、それは心理的虐待なのです。そう考えると案外、虐待って近くにあるような気がしませんか?
    この言葉にどきっとしました。わたしはまだ子供がおりませんが、将来きっとこういう問題に直面するのだろうなぁと思います。自分自身を愛情でいっぱい満たしてあげて、まわりにも愛を与えられる人間になりたいなぁと感じました。

  6. schedule2016.02.25

    鷹れん

    「虐待」ってきくとつい暴力やそれこそ命にかかわるような事件を連想しますが、夫婦喧嘩も虐待になりえるのですね。

    お母さんの孤独さとか(育児は母親がするのが当たり前、みたいな)今は(頭では)理解しているけれど、
    子供に「それを理解して受け止めろ」なんて酷な話だし、したくもありません

    だから当事者だけではなく、まわりの第三者が関わっていくことが大切なのかなぁとも思います。

    難しいテーマだからこそ、ずっと考えていきたいです。虐待だけではなく、他にもいろいろ。

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